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ナマステに笑顔を添えて  (第二章・知恵の目)

巨大な目玉に守られて


 夜中、あまりの寒さで目が覚めた。
 予備の毛布を引っ張り出して掛けたが、それでもまだ少し寒い。
 カトマンズの安宿では暖房設備が無い部屋が多いので、しっかりと防寒をして眠る必要がある。

 このゲストハウスは路地裏なので静かに過ごせると思ったが、早朝だけは違っていた。
 夜明け前から、近所のニワトリのけたたましい鳴き声で起こされたのだった。
 一国の首都の中心部とは思えない、のどかな生活音だ。

 「おはよーごじゃいまーす。ジャロ、ジャロね〜」
 ゲストハウスの1階に食堂があり、ここで朝食をとった。
 食堂のお兄ちゃんたちも挨拶程度の日本語が話せた。
 「ジャロ」 はネパール語で 「寒い」 と言う意味なのだそうだ。

 今日は一日かけてカトマンズ市内の観光をする。
 ドライバーのナレスラマ君は、簡単な日本語が話せる陽気な青年だ。
 迷路のように入り組んで狭いデコボコ道を走ると、そこではカトマンズ市民の生活を垣間見ることができた。
 露店に群がる人々、共同水場で洗濯をする女性たち、道草をしながら学校へ向う子どもたち、どれもが当たり前の生活風景なのだろうが、異国人の目にはすべてがとても新鮮で興味深く映った。
 
 譲り合うことが無いので、狭い道では車のすれ違いに時間がかかったが、小高い丘の頂上に建つ寺・スワヤンブナートに到着した。
 麓から頂上までは無数のマニ車があり、参拝者はこれを廻しながら長い石段を上って参拝にやってくるのだ。
 マニ車は回転する筒の中に経典が納められ、これを時計回りに一周させるとお経を1回唱えたことになる、何とも横着者には便利な仏具だ。
 寺院側としても、経典を書棚にしまっておくと虫が喰ってしまうため、時折、広げて干す必要がある。しかし、マニ車に納めていれば、参拝者が回すことによって経典に新鮮な風が常に送り込まれ、この手間が省けるのだ。
 寺院にとっても参拝者にとっても、大変に合理的にできている。

 スワヤンブナートのストゥーパ (仏塔) には巨大な目玉が描かれいる。
 これはカトマンズを見守ると同時に、仏陀の知恵の目として世界を照らしているらしい。
 遠くからでもこの目を見ることができるが、真下まで近付いて行くとその大きさ、偉大さには畏敬を感じる。
 そしてまた、この目を見ていると心に安らぎをも感じてきた。



汁そば


 車はカトマンズの外周道路であるリングロードを通り、池に横たわる大きなヴィシュヌ神の像で有名なブタニールカンタへ向った。
 小さな寺院なのだが、敬虔な信者たちが真剣に祈りを捧げていた。
 そんな彼らに心を洗われた後、ボダナートへ行く。
 スワヤンブナートがカトマンズの西の目≠ネらば、ボダナートは東の目≠ノなり、やはり巨大な目玉でカトマンズの町と世界を見据えていた。
 ネパール最大のストゥーパは、古くからチベット仏教の巡礼地として賑わっており、世界でも有数のチベット文化の中心地になっている。
 ストゥーパの周囲には中世ヨーロッパにあるような建物が取り囲み、いささか陳腐な表現だが、まるで東京ディズニーシーにいるような感じだ。

 多くの参拝者が時計回りにストゥーパを周回していた。
 ネパールで寺院を回る場合は、必ずこの時計回りで歩くのだそうだ。
 大福の上にトンガリ帽子を乗せたようなストゥーパは、とても変わった形で、墳墓のようにも見えた。
 植物から作られた塗料を入れたバケツを大福の部分に投げつけて、ストゥーパを黄色に染めている人たちがいた。
 ナレスラマ君によると、黄色に染めることが宗教的な意味を持っているのだそうだ。
 白い方がいいと思うのだが…

 ストゥーパの隣にある小さなお堂には、高さが3メートルもある巨大なマニ車が2つ回っていた。
 狭い部屋の中でゴーゴーと音をたてて回る様子は、恐怖さえ感じる。
 間隔の狭い2個のマニ車の間に挟まったら、命を失いそうだ。

 ひと通りの見学を終えると、ちょうど昼食の時間となった。
 そこで、巨大な目玉を間近に眺められるテラスのレストランに入った。
 やはり店の入口が分かりにくかったが、陽光の溢れる屋上のテーブルからは、ストゥーパの巨大な目玉が手に取るように見えた。
 「ネパールの麺類は何が有名?」
 ナレスラマ君に尋ねると、
 「ん〜、トゥクパは食べましたか?」
 「とぅくぱぁ? 何それ?」
 「ヌードル ウイズ スープ です」
 「あ〜、汁そばね。じゃあ、それを食べよう」
 自分はトゥクパと呼ばれる汁そばを注文し、ナレスラマ君はスプリング・ロール (=春巻き) を注文した。
 「スプリング・ロールだけで足りる?」
 まだ若い23歳の彼には、それだけの昼食では物足りないように思えた。
 すると、
 「ネパリ (=ネパール人) は、朝と夜しか食べないよ」
 どうやら、ネパールでは1日に2食が一般的のようだ。
 だから彼らにとってこの昼食は、ほんのおやつ≠フ感覚なのだろう。

 トゥクパは平たく伸ばした米麺の汁そばで、少々ピリ辛味ではあるが、口に残る辛さではないので、日本人の口に合う食べ物だった。

 ネパールでは、多くの飲食店が食後にテーブルで精算をする方式をとっている。
 そして、多くの店が 「チェックプリーズ (お勘定〜) 」 と言ってから、相当の時間をかけて伝票を持ってくる。
 「忘れられたのか?」 と思うくらい時間が経過してから、これまたゆっくりと明細を運んでくるのだ。
 これが、何事にものんびりしているネパール人の国民性のようだ。



ああ、無常…


 腹も満たされ、午後の日差しを受けながら、車はネパール最大のヒンドゥー教寺院のパシュパティナートへ向った。
 駐車場で車を降りると、すぐに物売りのおばさんたちが寄ってきた。
 「まんだぁーら (曼荼羅) 、見るだけぇ〜、安いよぉ〜」
 曼荼羅の描かれたリングや布を売ろうとしているのだった。
 「うん、安くても買わないよぉ〜」
 と言いながら、川沿いの道を進む。
 
 やがて広々とした川原に出た。
 そこは10メートル足らずのドブ川の対岸に、かなり大きな寺院があった。
 寺院の手前、川原のほとりには縁台のような台座があり、そこでは薪が炎を上げて燃えていた。
 ここは火葬場なのだ。
 つまり、目の前で炎を上げているのは、遺体を焼いているのだった。
 幾つかある台座のすべてで火が焚かれており、人間を焼いた煙で充満していた。
 わずか数メートル目の前に黒焦げの体が見えるのは、かなり衝撃的なものである。
 臭いはこれと言って無い。
 インドのバラナシには同じような火葬場があるらしいが、甘い臭いが充満していると聞いた。
 しかし、ここでは無臭の煙が立ち込めていた。
 川原のこちら側では大勢の地元民が、この火葬風景を眺めていた。
 対岸で泣き叫ぶ遺族とは対照的に、暇に任せてボンヤリと眺める人や、楽しそうにお弁当を広げている家族もいた。
 このわずかな幅のドブ川を挟んで、生と死、苦と楽が入り乱れている場だった。
 自分も生≠フ場でしばらく火葬風景を眺めた。
 人間の無常さを感じながら…

 火葬の終わった遺灰は、いや、完全に灰にはなっていない黒焦げの遺体の一部は、燃えカスの薪と一緒にそのまま目の前のドブ川に一気に押し捨てられた。
 「げぇ〜!」
 思わず声をあげてしまった。
 そのドブ川では沐浴をしている人もいるからだ。
 宗教観の違いをまざまざと見せつけられた。

 パシュパティナートはカトマンズ市内にあるものの、さまざまな野生生物が生息している場所でもある。
 野生の猿は我が物顔で寺院を歩き回り、人々からエサをもらっていた。
 でも日本の猿とは異なり、目が合っても襲ってきたり、威嚇する素振りを見せない。
 ネパールでは猿も人間と同じで、温和な性格のようだ。

 パシュパティナートはサドゥー (行者) の巡礼地でもあり、質素な小屋には大勢のサドゥーたちがゴロゴロと横たわっていた。
 「何を修行してるの?」
 と聞きたくなるほどに、ボンヤリと日向ぼっこをしていた。
 このように、行者≠ニ言っても極めて俗的で、カメラを向けると金を請求するし、「1ドルで祈祷してやる」 と追いかけてきた。
 日本の修行僧をイメージしていると、大きなギャップに戸惑いを覚える。
 そして、
 「オレが祈祷すれば、アソコが強くなるぞ〜 バイアグラ要らずだ」
 と、のたまっていた。
 「はいはい、そーですか。間に合ってますよ〜だ」
 と、自分は軽くあしらったが、
 「ホッ、ホント?」
 と、ナレスラマ君は話しに乗っていた。
 「おいおい、君はまだ23歳だろぉ!?」

 続いて本日の最終目的地、パタンに向かう。
 ここはカトマンズの古い町並みが残る地区で、寺院が所狭しと並んでいた。
 共同水場では女性たちが髪を洗ったり、子どもたちが走り回って遊んでいたりと、生活感溢れる観光地でもあった。



スシ詰めのお座敷


 一日の観光を終え、夕暮れのタメル地区に帰って夕食に出掛けた。
 ネパール料理の店を何軒か覗いてみたが、どうも美味そうな店が見つからない。
 そのうちに、日本料理の店に出くわした。
 旅先で、しかもまだ2日目なのに日本食はちょっとな… と思いつつも、入口に貼られた美味そうな和食の写真に心揺さぶられ、足はいつの間にか店内に進んでいた。
 当たり前だが、店内は思い切り日本≠セ。
 今の世の中、インターネットが発達したので、こんなネパールの地でも今日の 「読売新聞」 朝刊が当然のように置かれたいた。
 「いらしゃいまーせ」
 アクセントは変だが、日本語のできる店員さんが緑茶とメニューを持ってきた。
 メニューに飲み物の記載が無かったので、
 「飲み物は何があるの?」
 と尋ねた。
 「ジュース、ビール、そのほか、ありまーす」
 「日本酒… なんてないよね?」
 「あついの? つめたいの?」
 「えっ、あるんだ〜 じゃあ、熱燗ね〜」
 と言うことで、カトマンズ2日目の夜に、熱燗をキューッとやることになった。
 電子レンジでチンし過ぎた徳利は火傷しそうなくらい熱かったが、日没後に気温が下がって冷えた体を、日本酒が隅々まで温めてくれた。

 すっかり日本の雰囲気に浸っていたのだが、途中から欧米人や韓国人のグループがやってきて、店は多国籍状態となった。
 韓国人グループはすごかった。
 お揃いのジャンパーを着ていたので何かの視察団のような彼らは、最初20名ほどで店に入ってきた。
 そして、店に1部屋ある座敷に上がり込んだ。
 そこは12名ほどが座れるくらいの広さしかなく、店のお兄ちゃんが、
 「ちょっとキツイかな…」
 と言っていたが、それでも構わず全員で座敷に上がった。
 店のお兄ちゃんは苦笑しながら、お茶の用意のために厨房に引っ込んだ。
 その間に、さらに同じジャンパーの韓国人が10名ほどが店にやってきた。
 そして、総勢約30名でこの狭い座敷に座ったのだ。
 老若男女が折り重なりながら何とか着席し、
 「☆▲∞£# スミダ! ☆▲∞£# スミダ!…」
 と楽しげだ。
 お茶を運んできた店のお兄ちゃんは、このギュウギュウ状態を見てしばらく固まっていた。
 そりゃそうだ。 「これでどうやって食事をするの?」 と聞きたくなる。
 空いているテーブル席がいくつかあるので、そちらに移るようお兄ちゃんも勧めていたが、彼らの結束力の固さはそんなことでは動じなかった。
 「なぜ、そこまでしてお座敷にこだわる?」
 食事が運ばれてきてからも苦労が耐えない。

 どうにかこうにか食事を終えて彼らが退店したあとの店は、まるで嵐が去ったようだった。

 さて、楽しいものを見ているうちに酒の本数も増え、ホロ酔い気分でゲストハウスに戻る。
 途中でカシミアのセーターや帽子を売る店があったので、そこでモコモコの靴下を買った。
 就寝時にこれを履けば、かなり暖かく快適に眠ることができそうだったからだ。

(第二章 終)



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