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めこん・風の物語  (第八章・火の用心)

寝坊をした兄ちゃん


 早朝4時。
 荷物を担いで部屋を後にする。
 薄暗いフロントには人の気配が無く、正面玄関には鉄格子のシャッターが閉まっていた。
 「ありゃ〜 出られん」
 仕方なく中庭を回って裏口へ行ってみるが、こちらも頑丈で高い鉄の扉が閉まっており、外に出ることが出来なかった。
 再度フロントまで戻り、暗い中で目を凝らして見ると、机の上に鍵の束が無造作に置いてあった。
 手にとってシャッターの鍵を探す。
 「もう出発か?」
 暗闇の中から声がした。
 あまりの突然に、一瞬心臓が凍り付く。
 「なっ何だぁ、おじさんそこに居たのか…」
 ゲストハウスのおやじさんは、フロントの机の奥の長椅子に布団を敷いて寝ていたのだ。
 「すぐに開けるから待っとれ」
 おやじさんは寝ぼけまなこでそう言う。
 「大丈夫よ。自分で開けるから」
 「そうか。じゃあ、開けたらちゃんと閉めとけよ」
 そう言うと、再び布団にもぐりこんで眠ってしまった。
 ガラガラと大きな音を立てながら、一人分が通れるだけの隙間を開けて外に出る。
 外からシャッターを閉め、鉄格子の間から鍵の束を投げ入れる。
 ガチャガチャンと音を立てて鍵の束が床に落ちたが、おやじさんは起きる気配が無かった。
 
 外はまだ真っ暗で空には星が瞬き、野犬が低い唸り声を上げていた。
 昨日のトゥクトゥク兄ちゃんとの約束でメコンホテルまで行く。
 しかし約束の4時半を過ぎても来る様子がなかったので、たまたま通りかかった別のトゥクトゥクに乗りこみ、バスターミナルへ向かう。
 
 バスターミナルの待合所には、大きな荷物を抱えてここで夜を明かした人たちが数人、ベンチで眠っていた。
 5時になるとチケット売り場が開き、パクセまでのキップを購入する。
 しばらく待合所で待っていると、昨日のトゥクトゥク兄ちゃんがやって来た。
 彼はキョロキョロとあたりを見回し、こちらの姿を見つけると走って近付いて来た。
 「ごめんなさい!」
 彼の第一声だ。
 「兄ちゃん、寝坊したろ?」
 バスに乗り遅れたわけでもないし、延々と待ち続けたわけでもないので、彼を責める気は全く無かった。
 「ごめんなさい。急いでメコンホテルへ行ったけど、あなたはもう居なかった」
 寝坊した彼が悪いのだが、早起きをしても稼ぐことが出来なかったことに同情の余地はある。
 売店でコーラを買い、彼にご馳走する。
 
 東の空が白み始めた頃、数台のバスがエンジンをかけ始めた。



赤茶色に染まったバスの旅


 前後2扉のおんぼろバスは、定刻の6時に超満員の乗客を乗せて出発した。
 快調に走れたのはほんのわずかの距離。
 道路は町を外れると赤土のデコボコ道へと変わり、車体が激しく揺れ始める。
 決して頑丈とは言えない頭上の網棚では、乗客たちの持ち込んだ家財道具一式はあろうかと思われるたくさんの荷物が、この揺れに合わせて今にも落ちそうになっている。
 全開になった窓からは赤茶色の砂ぼこりが容赦無く車内に吹き込み、目も開けられないほどだ。
 このホコリで体中が徐々に赤くなっていき、すぐに頭も砂でジャリジャリになった。
 じきに舗装路に変わるだろうという期待も虚しく、パクセまでの約200キロがすべてこのような状態で、過酷なバスの旅を強いられることになった。
 
 しかし、デコボコ道に並行して、日本とオーストラリアのODAによる道路や橋の工事がおこなわれていた。
 我々の進んでいる道が蛇のように曲がりくねった狭い道なのに対し、工事中の道路は広くて真っ直ぐな道である。
 これが延々とどこまでも続いていくのであるが、働いている人の姿がどこにも見当たらなかった。
 今日は金曜日 ―― 何かの祭日なのか?
 建設車両などもそのまま放置されているかのようで、これではいつになったら完成するのか判ったものではない。
 しかし、いつの日にかこの道路が開通すれば、過酷なバスの旅もむかしむかしの物語になってしまうのであろう。
 
 バスは所々の集落で乗り降りのための停車をした。
 しかし、これが意外にも時間のかかるものだった。
 なにせ一人一人が抱えきれないほどの荷物を持ち込んでいるため、それをバスの車内や屋根の上から降ろし、さらに乗り込んでくる乗客の荷物を積み込むのである。
 荷物の積み下ろしには乗客たちも手伝わされるハメになるのだが、誰一人として文句をつけるヤツはいない。
 お互い様だからだ。
 彼らの荷物はほとんどが生活物資である。
 ニワトリなどの生き物を始めとし、麻袋にギッシリと詰め込まれた穀物、どこかの店に卸すと思われる多くの生活雑貨、エンジンのような大きくて重い機械類、etc…
 このバスは人の輸送だけではなく物流も兼ねている交通機関なのだ。
 
 このように時間のかかる乗り降りは、自分のような長距離を行く客にとってはむしろありがたい停車時間である。
 それは車外に出て体を伸ばすことができるからだ。



何を求めてラオスまで?


 このバスには自分以外の外国人で、ドイツ人夫妻が乗っていた。
 この2人、ドイツ人にしてはやたらと愛想が良く、休憩時間などでは必ず彼らから話しかけてきた。
 「君のTシャツもついに赤くなったね」
 何回目かの停車時間に体を伸ばしていると、ドイツ人の夫がニコニコしながら話しかけてきた。
 必ず2人でタバコを吸いに車外に出てくるのだが、今回は奥さんが居ない。
 「奥さんは?」
 「タイミングを逃して出そびれたようだ」
 すでに車内は乗る人と降りる人がゴチャゴチャになって、収拾のつかない状態と化した。
 そんな中、窓から顔を出していたドイツ人の奥さんはドイツ語で旦那に何かを言うと、体を乗り出してバスの窓から落ちるように脱出してきた。
 「狭くて耐えられないわ」
 そう言うとくしゃくしゃになったタバコに火を点けた。
 彼らの体格から考えれば、座っているのが不思議なくらいにこのバスの座席幅は狭かった。
 「君はどこまで行くんだい?」
 「パクセです。あなた方は?」
 「君とはこの地獄をずっと共にする運命だ」
 彼らも自分と同じく、終点のパクセに向かっているのだった。
 「楽しい旅をしていますか?」
 自分の行程と似たように、ルアンパバン、ヴィエンチャン、サバナケットを巡って来たという彼らに尋ねる。
 「退屈しているわ」
 間髪入れずに奥さんが眉をひそめながらそう言った。
 「だって、何も無いからね・・・」
 夫がそれに付け加える。
 彼らの旅のスタイルを完全に否定するわけではないが、彼らは何を求めてこのラオスまでやって来たのだろうか?
 この国にテーマパークでもあることを期待していたのだろうか、それとも街角のカフェにでも腰を落ち着けながらショッピングで疲れた体を癒したかったのだろうか・・・
 自分なんぞは何も無い≠ゥらこのラオスを選んだのであり、観光地化されていないからこそ、本当の意味でのその国の人々の生活を見ること触れることができるものだと思っている。
 お決まりの風景を見て、商業化された民族舞踊を観賞し、地元の人が口にしない名物料理を食べるのも旅の楽しみなのかもしれないが、自分にとってはそんなことに金と時間を費やしたくはない。
 日本では知ることのできない人々の生活に驚き、彼らの人間味溢れるやさしさに接することができるのであれば、それがその旅において、いや人生にとっての最高の土産であると思う。
 何も無い≠ニ言う事は商業化されていない≠アとであり、それは即ち本物≠ノ出会える可能性が高くなるのだ。
 何も無い≠ゥらこそ、そこに見出す楽しみは無限大なのではなかろうか?



それ、食うの!?


 バスは停車中、大勢の物売りたちに取り囲まれていた。
 これまでに見てきたラオス人とはまったく異なり、この辺りの物売りたちは殺気立って売り込み合戦をおこなっていた。
 カオニャオやパン、串焼き、卵などを手に手に持ち、バスの窓越しにそれらを突き出しながら口々に何かを叫ぶ。
 こちらが 「いらない」 と態度で示しても、別の物売りがやって来て同じ事の繰り返しである。
 目が合おうものなら大変で、執拗に迫ってくるのである。この迫力こそ、まさに東南アジアのパワーだ。
 彼らが売っている物は主に食べ物が中心なのだが、中には洗面器に入れられた生きたカエルやナマズを売っている人もいる。
 (これ、バスの中で喰うのか?)
 ホコリにまみれながらも、ラオス人は物売りから買った食べ物をとても美味しそうに食べていた。
 前の座席に座っている美人三姉妹も、ルアンパバンで見た巨大コオロギの串焼きをバリバリと音を立てて食べていた。



万国共通の笑いの渦


 (シャワーを浴びたい)
 心の底から思うこと7時間。
 やっとのことで過酷なバスの旅は終わりを告げ、終点であるパクセの町に到着した。
 ここのバスターミナルも他の町と同じく、中心地からやや外れた所に位置していた。
 ドイツ人夫妻はどこかにアテでもあるのか、別れを告げるとそそくさとトゥクトゥクに乗って立ち去ってしまった。
 バスターミナルに残っている1台のトゥクトゥクに乗り込む。
 これまで一緒だったバスの乗客たちとの相乗りである。
 「町の中心で降ろしてくれる?」 
 運転手のお兄ちゃんに言う。
 「どこのホテルだ?」
 「いや、まだ決めていない」
 「OK、着いたら教える」
 その間にもトゥクトゥクには次々と乗客が乗り込み、軽トラックの荷台を改造した客席は超満員に膨れ上がった。
 乗れるだけ乗せると、か弱いエンジンを最大にふかしてスタートしようとするのだが、ぬかるんだ広場の道にタイヤは虚しく空転するだけであった。
 必死になって脱出しようとするお兄ちゃんの形相とは対照的に車内では笑いが起こり、数人の男たちが車を後ろから押し始めた。
 
 ノロノロと走り始めたトゥクトゥクは、乗客の家に一軒一軒立ち寄りながら、町の中心に向かってのどかな農村地帯を進む。
 車内もどことなく和やかな雰囲気になり、乗り合わせたおばちゃんたちが外国人である自分に関心を寄せてきた。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠… ガッハハハ・・・」
 何やら言いながら大声で笑う。
 「何? 何? ラオ語じゃ分からないよぉ」
 思い切り日本語で返す。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠… ガッハハハ・・・」
 それを受けておばちゃんたちはさらに喜ぶ。
 「?????」
 「あなたの腕よ」
 正面に座っていた女の子は少しだけ英語が話せた。
 ここでも自分の日焼けが話題の始まりだった。
 「そんなに日焼けがおもしろいか?」
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠… ガッハハハ・・・」
 正面の彼女が通訳すると、さらにおばちゃんたちは盛り上がる。
 おばちゃんたちの豪快な笑い声は万国共通だ。
 「これ、食べてみて」
 正面の彼女が、銀杏のような実をたくさんつけた果物らしき物を袋から取り出し、枝ごと手渡してくれた。
 「これ何?」
 「ラオスのフルーツ」
 「どうやって食べるの?」
 彼女がその小さな実を一粒取り、皮を剥いて口に入れる。
 食べ方は聞くまでもなかった。
 早速自分も真似して口に入れる。
 おばちゃんたちは興味津々でこちらに注目している。
 乾燥したぶどうのような味が口の中に広がる。
 「美味しい」
 そう言うと、おばちゃんたちにどよめきが起きた。
 彼女たちにとって、外国人の一挙手一投足は珍しいことのようだ。
 
 こんな楽しいトゥクトゥクは、相当の時間をかけて町中へとやって来た。
 「ここが中心だ」
 運転手のお兄ちゃんがこちらに振り向き、そう告げた。
 「どこに泊まるの?」
 正面の彼女が尋ねる。
 「いや、まだ決めていない」
 リュックを背負いながら答えると、くだんのおばちゃんたちは口々に 「あのホテルがいい」 「向こうのゲストハウスが安い」 と好き勝手にアドバイスを始めてくれた。
 
 さて、町の中心に降りたのは良いが、ホテルが見つからない。
 とりあえず、おばちゃんたちが指差していた方向へと足を進める。
 しばらく行くと、道路に露店がひしめいている市場の近くに一軒のホテルを見つける。
 『ソクサムラン・ホテル』 ―― 料金は安いとは言えないが、清潔で広々した室内はラオス最後の町で疲れを癒すのにちょうど良かった。
 
 荷物を降ろすや否や、すぐにシャワーを浴びて洗濯をする。
 赤茶けたTシャツは1回では汚れが落ちず、洗剤をたっぷり使って洗うこと2回目で、ようやく元の白い色に回復する。
 衣類も体もサッパリしたところで散策に出掛ける。



火の用心


 市場を抜けるとフェリー乗り場に行き着いた。
 明日はこの船着場からメコン川を渡り、国境へ向かう予定だ。
 このメコン川の流れと共に進んできた1,000キロの旅も、もうすぐ終わりを告げようとしている。

 船着場のすぐそばに出ていた露店のおばちゃんたちと仲良くなった。
 この店でジュースを飲みながら、国境までのルートを尋ねたのがきっかけだった。
 そこには地元の国際宅配便で働く若者、センパチャンさんが仕事をサボってやってきており、国境越えについてアドバイスをくれた。
 「まず、そこから舟でムアンカオ村へ。 20分ほど歩くとバスが待っているから、それに乗ってバンタオ村へ。そこから歩いて国境まで行ける」
 対岸に渡ればすぐに国境だと思っていたのは間違いだった。
 「国境まで遠いの?」
 「朝早く出発した方がベターさ」
 英語のできるセンパチャンさんは、とても親切にバスの運賃なども教えてくれた。
 「火の用心!」
 露店のおばちゃんが突然日本語でそう叫ぶ。
 センパチャンさんが自分のことを日本人だと伝えたので、彼女は唯一知っている日本語を得意気に言い放ったのだ。
 「突然、火の用心って言われてもな・・・」
 リアクションに困る。
 「誰から教わったの?」
 センパチャンさんがラオ語に訳しておばちゃんに尋ねてくれた。
 「日本人の旅行者だって」
 よりによって、なんで火の用心≠チて教えたのだろうか?
 
 ピロピロピロピロ〜 センパチャンさんの携帯電話が鳴った。
 「仕事だ。私は行かなくては」
 彼はサボっていたのではなく、ここで待機していたようだ。
 「記念にみんなの写真を撮らせて下さい」
 とカメラを取り出す。
 センパチャンさんは嬉しそうにポーズをとりながら、近くにいた子供たちを集めた。
 「おばちゃんも一緒に・・・」
 ニコニコ笑いながら遠巻きに眺めているおばちゃんを誘う。
 センパチャンさんもラオ語で誘ったが、両手を振ってこれを拒否した。
 「遠慮しなくていいから。さぁ」
 としきりに誘うが、おばちゃんはただニコニコして首を横に振るだけだ。
 「写真が怖いのさ」
 センパチャンさんがそう言った。
 「おばちゃん、大丈夫よ。怖くないから・・・」
 何と言おうと、いくら誘おうと、おばちゃんは写真を撮られることを頑なに拒否し続けた。
 ここで、チェンコーンで出会った川口さんの言葉を思い出す。
 「僕はずっとラオスの人々を撮り続けてきているんだけど、カメラを向けた時の彼らの反応は、ハッキリ2つに分かれますね」
 「2つに?」
 「ええ。ものすごく喜んでポーズをとるか、怖がって逃げ回るかのどちらかですよ」
 「魂でも取られると思っているのかな?」
 「たぶんね。写真がまだ珍しいのですよ」
 自分がこの間にカメラを向けてきた人々は、こちらが驚くほど喜んでポーズをとる人たちばかりだったので、ラオス人は写真を撮られることが好きなのだと思い込んでいた。
 しかし、このおばちゃんの行動を見ると、彼らにとって写真はまだまだ未知の分野なのかもしれないと思った。
 残念だがおばちゃんと撮ることは諦めて、センパチャンさんたちを写真に収める。

(第八章 終)



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