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めこん・風の物語  (第六章・夕陽の中での再会)

大ヤケド!


 朝起きてみると、腕と足の日焼けしたところが無数の水ぶくれとなっていた。
 自分の手足ながら気持ち悪い=B
 ペタペタと叩いていたら、水ぶくれが全部潰れて皮膚がベロベロになってしまい、もっと気持ち悪りぃ〜≠ノなってしまった。
 完全にヤケドである。
 
 8時半から行動開始。
 フロントにキーを預けようとすると、
 「腕、どうしたの?」
 とフロント氏に訊かれた。
 他人が見たらすんげぇ〜気持ち悪りぃ〜¥態なのだろう。

 ヴィエンチャンの町も小さく、中心地は約3キロ四方ほどなので、観光するには歩いて充分な広さである。
 まずはメコン川の流れを見ることから始めた。
 水たまりを避けながら歩くこと10分足らずで土手に出た。
 土手を上がると、そこには今までに無かった広々としたメコン川があった。
 対岸がかなり遠くに見え (約2キロあるそうだ) 、広い広い空にポッカリと白雲が浮かんでいた。
 水の流れは極めて穏やかで悠久の時を感じる。
 そこに涼やかな風がやさしく吹き、とても心地良い。
 
 土手沿いに進み、本屋や寺院などに立ち寄りながら、辿り着いたところが 『タラート・サオ (朝市場) 』 だった。
 大きな2階建ての建物が3棟。
 その中はまるで迷路のように小さな店が密集していた。
 衣類、金行、電化製品、食料品と大まかに分類されており、買い物がしやすいようになっていた。
 しかし、あまりに店の数が多く、市場内の通路は複雑に入り組んでいるので幾度となく迷子になってしまった。
 この市場では店を覗いていると、
 「手足どうしたの?」 とか 「痛そうね」
 と、おばちゃんやおネエちゃん達から声を掛けられ、地元の人々とコミュニケーションを持つことができた。
 中には売り物のフルーツをくれたお兄ちゃんもいて、まさに怪我の功名≠ナあった。



活用されているODA


 ラオスにしては珍しくきれいで大きな通りの先に、パリの凱旋門のような 『アヌサワリー』 と言う塔があった。
 これは1960年代に建てられた戦没者慰霊のための塔だ。
 市場からはすぐ近くに見えたのだが、炎天下の道を歩いて行くのは結構辛かった。
 塔の真下の日陰にはテーブルとベンチが設置され、風の通り道となっていたのでビッショリかいた汗もサッと引いてしまうほど涼しかった。
 500キップ (約6円) の入場料を支払い、塔のてっぺんを目指す。
 薄暗く湿気臭い階段を登り詰めると視界がパッと開け、緑多き市街を手に取るように眺めることができた。
 高さは5階相当のものなのだが、他に高い建物が無いために視界が遮られることがない。
 それにしても緑が多い。
 そして空がやたらと広い。
 (これが首都か?)
 改めて思う。
 しかし、ここには日本の首都に無いものがたくさんあった。
 それは木々の緑であり、それらが作る木陰である。
 どんな炎天下も木陰にいれば風が涼しく、冷房など無くても暑さは充分にしのげた。
 そして何よりもこの国が誇れるもの ―― それは人々の笑顔である。
 どこへ行ってもやさしい笑顔で迎えてくれ、シャイだが気さくで温和な人々が自分の周りにたくさんいた。
 経済的には貧しい国かもしれないが、人々の心は日本なんかよりも数倍も豊かな国だと実感した。

 市場の隣にあるバスターミナルへ行く。
 次の目的地であるサバナケットへのバスの時刻を調べるためだ。
 多くの人々でごった返した待合所の隅に、ルート案内板と時刻表が掲示されていた。
 しかし、これらはすべてラオ語表記なのでまったく理解ができない。
 途方に暮れていると、近くにいたおじさんが片言の英語で声を掛けてきた。
 「どこに行きたいの?」
 「サバナケットまで行きたいんですが…」
 おじさんは時刻を調べてくれ、
 「7時半、10時、11時、14時半の4本だ」
 と教えてくれた。
 「ところで、どこから来たの?」
 「にっぽん…」
 と答えると、おじさんは1台のバスを指差した。
 そこには新車の路線バスが停まっており、鮮やかなブルーの車体に 『JAPAN』 の文字。
 地球のロゴマークの周囲に 『Official Development Assistance』 ―― 日本からのODA (政府開発援助) で購入したバスがそこにあった。
 しかも1台や2台ではなく、ターミナルに出入りするほとんどの近距離バスがそれであった。
 「ジャパンのバスは涼しくて快適だ」
 車体がボロボロで、扇風機さえ満足に動かないラオスのバスが多い中、これらのバスは冷房の付いた最新型の車体なのだ。
 日本国内ではODAの是非を巡って何かと議論の多いところだが、おじさんが嬉しそうに語る様子を見て、少なくともラオスでは有効活用≠ウれていることを実感した。

 午後はホテルに戻って昼寝。
 ベッドの上で今後の予定について考えた。
 最南端の国境からタイに戻るためには、これからの先の旅は駆け足になってしまう。
 なにせ残された日数は5日。
 バンコクまでのタイ国内の移動に最短でも1日を要することを考えれば、4日間で800キロ以上を移動しなくてはならないのだ。
 しかも最南端の国境では、外国人の通行拒否があるかもしれないとの情報があった。
 もしそうなれば、手前の国境まで戻らなくてはならないので、そのための余裕の日数も確保しておく必要があった。
 場合によってはヴィエンチャンでもう少しぐうたら≠オてから、タイ・ラオス友好橋を越えてバンコクへ向かおうか、とも考えていた。



夕陽の中での再会


 午後6時、メコン川の土手に出された屋台のテーブルに陣取り、夕陽が沈むのをひたすら待つ。
 ビールを飲んでいるテーブルのすぐ傍らを、家路に向かう牛の群れが通り過ぎる。
 6時半を過ぎた頃から、太陽が真っ赤に空を染めていった。
 しかし、方向的には川をやや外れ、町の中に沈んで行ってしまいそうだ。
 「あっ〜! ぽからさ〜ん!」
 遠くから自分を呼ぶ声がした。
 (エッ?)
 声の方を見ると、そこにはルアンパバンで別れた徳永さんと奥様が手を振っていた。
 「やっぱり、ぽからさんだぁ」
 つい3日ほど前に別れたばかりなのだが、とても懐かしく思えた。
 「あれ、手足がボロボロ…」
 「遠くからよく判りましたね」
 「日本人は他にいないからね。それにポカラさんなら夕陽を求めてこの土手にやって来ると思っていたし…」
 今回の旅が夕陽を求めてメコン川を南下していることを、徳永さんには話していたのだ。
 「ゲリラを心配していたんですよ。でも無事なようで何より」
 初対面の奥様だったが、徳永さんが撮った写真を見ており自分の顔は知っていた。
 「こちらのゲリラは大丈夫だったけど、徳永さんのゲリは大丈夫ですか?」
 しょうもないシャレを言ってしまった。
 「それが…」
 かなり重症だったようで、しばらく続いたとその後に日本へEメールを送ってくれた。
 屋台から食事やビールをたくさん運んでもらい、再会を祝しての乾杯をする。
 気が付くと空を赤く染めていた夕陽は、町中へと沈んでいってしまった。
 
 話しがついつい盛り上がり、夜8時過ぎにお二人とは別れて道路の穴ぼこに落ちないように注意をしながらホテルへ帰る。

(第六章 終)



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