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めこん・風の物語 (第五章・ゲリラ出没か!?) |
朝靄に映える袈裟 「おはようございます。出発ですか?」 フロントにいたのはオーナーのオヤジさんだった。 「3日間ありがとう。バスでヴィエンチャンに向かいます」 「山道は危険なので、くれぐれもお気を付けて」 爽やかな朝の冷たい空気の中、ホテル前にはトゥクトゥクおじさんが約束どおり待っていてくれた。 「おじさん、おはよう! さあ、キュロッに行こう!」 おじさんは元気にOKサインを出し、朝もや煙る町を快調に走り出した。 町には坊主が溢れていた。 結局見ることの出来なかった托鉢風景を、最後にして見ることができたのだ。 オレンジ色の袈裟に身を包んだ僧侶が10人ほどで1列になり、一軒一軒巡りながらお経をあげていく。 町の人々は家の前の道路に正座をし、供物を大事に抱えながら僧侶が来るのをじっと待っていた。 この光景がどこまで行っても続いており、今朝は朝もやがかかっているので特別に神秘的で不可思議なものに映った。 トゥクトゥクおじさんも運転をしながら、徳の高そうな僧侶には合唱をするなど、ラオス人の信仰の深さを改めて感じた。 トゥクトゥクは10分ほど走った町外れの原っぱに車を乗り入れた。 どう見てもバスターミナル≠ノは見えない。 単なる原っぱだ。 「キュロッ?」 と尋ねると、おじさんは大きく頷きながら小屋を指差した。 「チケット・・・ヴィエンチャン・・・」 その小屋で切符を売っているようだ。 おじさんが近くにいた若者に何かを言うと、その若者が切符売り場の小屋まで案内をしてくれた。 「ヴィエンチャンに行きたいんですが・・・ 何時ですか?」 結局どこで聞いてもバスの時間は分からなかったので、「まぁ、6時頃に来ればいいかな」 と思ってやって来たのだ。 「30,000キップ (約350円) 。出発は6時半」 (おっ、この時間に来て正解!) 我ながら鋭い感に満足していると、大きなノートが目の前に差し出され、「ここに書け」 とページが開かれた。 そこには手書きの表が書いてあり、ラオ文字で何やら表記されていた。 (何じゃこりゃ?) と戸惑っていると、先ほどの若者が表の一部を指差しながら、 「ネーム・・・ ナショナリティー・・・ オキュペーション・・・ ADナンバー (ビザ番号) ・・・」 と書くべき個所を丁寧に教えてくれた。 これはポリスチェック台帳のようだ。 わら半紙に何かが書かれた切符が手渡され、「あのバスへ」 と指差された所には、おんぼろトラックが一台停まっていた。 トラックはボンネット式の古い車体で、荷台を改造して客席になっていた。 屋根の上が荷物置場になっており、リュックをそこに預けてから客席に乗り込む。 窓が小さく (もちろんガラスは入っていない) 照明が無いので薄暗い車内には、木造の椅子が6列ほどビッシリと並んでおり、すでに多くのラオス人が出発を待っていた。 さらに多くの乗客がやって来て、車内は身動きの出来ない状態となった。 乗客の一人に体格の良い中年女性がおり、彼女が 「ここ詰めろ」 とか 「この荷物を屋根に上げろ」 とか一人で仕切りながら、少しでも多くの客が乗れるようにしていた。 それでも車内に乗り切れない客は屋根の上に登り、ニワトリや穀物などの荷物と一緒に出発を待っていた。 超満員のバスの乗客はほとんどがラオス人で、外国人は自分と3人のフランス人だけであった。 ゲリラ出没地帯を行く ブルンブルンブルン・・・ 腹に響くような低いエンジン音を響かせて、定刻どおりルアンパバンの原っぱを出発したトラックバスは、一路ヴィエンチャンへ向けて緊張≠フ山道へと進むのであった。 ここからヴィエンチャンを結ぶ国道13号線の一帯は、反政府ゲリラの出没地帯である。 少数民族が住む山岳地帯を縫うようにして通る国道は、政府の実行支配が一部及ばない 『サイソンブン特別区 (Saisombun Special Zone) 』 を撫でるように進むのだ。 つい最近もゲリラ襲撃事件が発生し、欧米人を含む5人が射殺されたそうで、日本の外務省も昨年 (1998年) の11月から注意喚起≠発令しているエリアである。 ラオスは東南アジアで一番犯罪の少ない国なのだが、ここだけは特別のようだ。 では、なぜこんな危険なルートを選択したのか? ルアンパバンからヴィエンチャンまでの交通機関は、このバスの他に2種類。 まずは船でメコン川を下るルート。 しかし、本格的な雨季がまだやってきていないこの時期は、川の水位が低くて途中で航行不能になるそうだ。 次は飛行機。 安全かつ早い。 1日に3便ほど、15人乗りの軽飛行機が運行されているので、状況によってはそれを利用する予定であった。 しかし、ラオスに来てこの間、欧米人旅行者や英語のできるラオス人から情報を集めた結果、「バスには完全武装した兵士が乗り込んで護衛してくれた」 とか 「山道には数百メートルおきに政府軍が警戒にあたっている」 など、とりあえずはこのバスに護衛≠ェあることが判った。 さらに、尋ねた人たちが口を揃えて言った言葉が、 「ノープロブレム!」 だった。 アジア人の 「ノープロブレム」 はノープロブレムでないことが多いが、欧米人旅行者のそれは信じても良いだろうと思い、このルートを選択したのだ。 そもそも、山道で民間バスを襲撃するなどと言うことは、政治的背景が薄れており、山賊≠ニ化しているに違いない。 ならば、素直に金を出せば命だけは助かるだろうとも思っていた。 そのため、命と引き換えの見せ金≠T0$をすぐに出せるようにし、その他の金品は細かく分散させて洗濯物の中などに隠した。 こうして準備万端整えて、ルアンパバンを後にしたのだ。 山道に入る手前の検問所のような所から、政府軍の兵士が1人乗り込んできた。 兵士は車掌としばらく話した後、乗客名簿にサッと目を通すとほんのわずかな隙間を見つけ、客席のど真ん中にドカッと座ってしまった。 彼が我々の命を守る護衛兵のようなのだが、腰には小さな拳銃が一丁ぶら下がっているだけだ。 対ゲリラなのに随分と身軽である。 せめて機関銃ぐらいは携帯して欲しいものだ。 敵は迫撃砲や手榴弾を持っているかもしれないのに・・・ しかもそんな所に座っていては、有事の際に機敏に応戦できないではないか。 屋根の上に乗って 「政府軍が護衛してますよ」 と外からでも判るようにしてもらいたいものだ。 こんな心もとない兵士ならば、厄除けの御札を車内に貼っているほうが、よほど頼りになる。 やがて道は右へ左へ蛇行を繰り返し、徐々に高度を上げていった。 標高1,000メートルほどの尾根伝いに道が延びているため、小さな窓から頭を出すと遥か谷間の下の方に点々と集落が見えた。 その集落の家々からは、朝食の準備をしているらしい炊事の煙が美しく立ち昇っていた。 山にへばりつくようにして建てられた高床式の住居や、鮮やかな民族衣装に身を包んだ村人が、背中に大きなカゴを背負って歩いて行く光景、そして道端には小さいながらも市が開いている風景は、夢でも見ているかのような幻想的なものであった。 さらに朝もやがその効果を大きいものにしていた。 ゲリラの恐怖も忘れさせてくれる美しい風景である。 トラックバスはさらに山奥へと入って行き、集落もほとんど無くなってしまった。 代わりに目に飛び込んできたのは、奇岩がそびえ立つ美しい山々の風景であった。 水墨画の世界がそこには広がっていた。 いよいよ、ゲリラがいつ出没してもおかしくない場所へとやって来た。 急襲か!? キュルキュルキュル… 突然、トラックバスは異音を発したかと思ったら、峠道の頂上付近で停車してしまった。 (おいおい、何事?) 状況が分からず、キョロキョロと周囲の様子を見ていると、運転手と車掌が慌てて車を降り、車体の下に潜り始めた。 (ゲリラの襲撃か?) と、一瞬の緊張が車内に走る。 …走るはずだったのだけれど ―― 緊張が走ったのは自分一人だけのようだ。 車内のラオス人は好き勝手に車を降り、トイレ休憩とばかりに草むらに散って行ってしまった。 護衛兵は車内で居眠りをしている。とてものどかなものである。 ゲリラなんかではなく、どうやらバスが故障してしまったようだ。 運転手と車掌は鼻歌を唄いながらハンマーで車体の下を無造作に叩く。 乗客もほとんど全員が車を降り、体を伸ばしながらこの作業を見守る。 「こんな時こそ、ゲリラに狙われる危険な状況なのでは?」 と神経質になっていたのも、自分一人だけのようだ。 修理を終えるまでには30分ほどを要した。 どうやらブレーキが故障したようで、再出発してもしばらくの間、ブレーキの様子を確かめながら運転していた。 ゲリラよりこちらのほうが怖い… 食っちゃぁ寝の連続で… 隣に座っていたラオス人のおじさんが弁当箱を取り出した。 ラオスの弁当箱は竹で編まれた円筒状のもので、その中にギッシリとカオニャオを詰める。 よってこれはカオニャオ入れ≠ニ呼ぶ。 おじさんと目が合うと、「食べるか?」 と弁当箱の蓋にカオニャオを入れて差し出してくれた。 今朝ホテルを出発するときにカオニャオを食べてきたのだが、おじさんの厚意を無にするわけにもいかないので、遠慮無くいただくことにした。 今朝食べたカオニャオは冷めていたので美味いものではなかったが、おじさんのそれは暖かく、そして柔らかくてとても美味かった。 おかずの漬物と一緒に食べると食欲が増し、ペロリと全部を平らげてしまった。 丁重に礼を述べて蓋を返すと、おじさんはとても嬉しそうな顔で笑った。 他の乗客たちもカオニャオやフルーツなどで朝食をとっており、仕切り屋おばちゃんからはモンキーバナナをもらう。 朝食を終えたラオス人は、折り重なるようにして眠り始める。 超満員の車内にプラスして、高度が上がり車内はとても冷え込んで来たが、ラオス人はみな良く眠っている。 この旅で判ったこと ――― 1.ラオス人は良く眠る いつでもどこでも、どんな状況下でもラオス人は眠っていた。 「あんなに早寝で昼寝までしているのに、まだ眠るのか?」 と、何度も思ったほどだ。 2.ラオス人はお行儀が良い どんなに混んだ車内であっても皆が協力して詰め合うし、食べ物も分け合って食べていた。 自分で食べきれない物は、偶然に隣り合った他人におすそわけをするのが当たり前のようだ。 3.ラオス人は三半規管が弱い バスに酔う人がやたらと多かった。道が悪いせいか…? 寒さに震えること数時間。 トラックバスは小さな村に停車した。 「カーシー、カーシー、…カオ (ご飯) 、カオ」 仕切り屋おばちゃんに言われ、このカーシー村で昼食休憩をとることが判った。 皆の後について一軒の食堂に入る。 「あんた、ここに座りなさいよ」 と、仕切り屋おばちゃんが隣の席をトントンと叩いている。 「あれは何?」 店では大きな鍋で何かを茹でていたので、仕切り屋おばちゃんに尋ねた。 「ベトナム麺よ。あれは美味しいわよ」 との答え。 周囲でもそれを注文する人が多く、自分も一杯注文する。 スープはドス黒くて見栄えは良くなかったが、骨付きの鶏肉がゴロゴロと入っており、ダシが良く効いていてとても美味かった。 30分の休憩の後、トラックバスは再び出発した。 今までとは打って変わり、道は平坦な田舎道へと変化していた。 1時間ほど走るとバンビエンの町に到着し、フランス人を含めた多くの客がここで降りた。 車窓からの眺めは山村風景から田園風景へと徐々に変わり、ヴィエンチャンの町が近付いていることが感じられた。 すれ違う車や民家が増えてきて、やっとゲリラの恐怖から解放された。 バンビエンからヴィエンチャンまでは3時間かかったのだが、その間にポリスチェックが3回もおこなわれた。 警察官がトラックバスに乗り込み、身分証明書の確認と大きな荷物のチェックをおこない、そのたびに車掌が少額だが金を支払っていた。 ドロドロの首都・ヴィエンチャン 少しづつ客が降りて行き、トラックバスはやがてヴィエンチャン市内へ入って来た。 町はスコールの直後のようで、道路はすべてドロドロのぬかるみと化していた。 ルアンパバンを出てから10時間後の午後4時半、やっとのことで終点のバスターミナルに到着した。 足腰がガタガタで尻が痛い。腰痛持ちの自分には結構ハードであった。 ターミナルにはトゥクトゥクがたむろしていたが、客引きは一切していなかった。 一人のトゥクトゥク兄ちゃんに地図を示しながら、 「このホテルに行って」 と、『ホテル・ラオ』 を指差す。 このホテルは旅行雑誌に写真付きで紹介されていて、設備の割に料金が安いことがわかっていたので、真っ先に行ってみようと思っていたのだ。 トゥクトゥクは泥を豪快に跳ね上げながら、ぬかるんだ道をホテルに向う。 流石は首都・ヴィエンチャン ―― 車の数が多かった。 道路も一方通行があったり、人もたくさん歩いている。 しかし、信号が極端に少ない、道路が穴ぼこだらけ、高い建物が無い、街灯とネオンも無い… 首都≠ニ呼ぶには少々寂しい気がする。 途中で雨が激しく降り始めた。 到着したホテルは、自分にとってはかなり贅沢なものであった。 広々した空間にキングサイズのベッド。 バスルームもとても清潔だ。 1泊20$ (約2,400円 )。 ラオスのキップではすぐに暴落してしまうので、ここでの支払いは米ドルのみだ。 すぐに町の散策に出掛けたかったが雨の止む気配が無かったので、部屋で数日振りにテレビを観た。 チャンネル表によると、ラオスにはテレビ局が2つあるようだが、タイの番組しか放映されていなかった。 どうも日中は放送していないようだ。 テレビ局も昼寝か? 夜になっても雨は止まなかったので、仕方なくホテル内に併設されているレストランで夕食をとる。 日本で一人留守番をしている妻に、やっとのことで電話をすることができた。 国際電話はルアンパバンでもかけることができたが、平日の日中のみの営業時間で、それも郵便局まで行かなくてはならなかった。 働いている妻に確実に連絡が取れる夜にかけたかったので、1週間も電話をすることができなかったのだ。 フロントで電話をつないでもらい、わずか5分間喋っただけで15$ (約1,800円) もかかってしまった。 (ビール付きの食事10回分だ) |
(第五章 終) ≪前ページへ [目次へ戻る] 次ページへ≫ |