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めこん・風の物語  (第四章・スプーン1本の芸当

困った外人さん


 大変お世話になった赤十字一行は、首都ヴィエンチャンに向けて軽飛行機で飛び立った。
 またひとり旅≠フ再開である。

 昨日の日焼けで足が腫れ上がり歩くのも苦痛であったが、朝食を求めてホテルを出る。
 早朝に降ったスコールによって道路のいたる所に水溜りができていた。
 その水溜りを避けながら人々とバイクが行き交い、昨夜の静けさとは打って変わった賑やかさであった。

 道路に並んだ露店では多くの人々が食事をしている。
 自分も地元の人々と同じ物を食べようと一軒の露店に寄った。
 4人も座ればいっぱいになってしまう木の長椅子に座り、隣の女性が食べていたドンブリを指差す。
 店のおばちゃんは春雨のような麺を大きな鍋に入れると、ドンブリに手際良く数種類の葉っぱや何だか判らない野菜を入れていく。
 最後に茹で上がった麺とスープを入れて完成。
 香ばしい湯気をたてたドンブリが目の前に置かれた。
 (さぁ、食べるぞ!)
 と思ったが箸≠ェ無い。
 ドンブリと一緒に出されたものは、スプーンが1本だけである。
 テーブルの上を見渡しても箸入れが無い。
 「これで食べるの?」
 とスプーンを指差し、ジェスチャーを添えておばちゃんに尋ねる。
 「そうよ」
 とおばちゃんは大きく頷き、「何でそんなこと聞くの?」 と不思議そうな顔をした。
 隣の女性が食べる様子をじっと観察した結果、器用にも1本のスプーンで麺を食べているではないか。
 (へぇ〜 器用なもんだな・・・)
 自分も挑戦すべく1本のスプーンで麺をすくおうとするが、無情にも麺はつゆをはね返しながら、ドンブリの中の仲間の元に帰ってしまう。
 何回挑戦しても結果は同じで、悲しいことにスプーンには葉っぱとスープしか残らなかった。
 先ほどから目の前で興味深そうに見ていた小学生くらいの店の娘さんと目が合う。
 「・・・難しいね」
 照れ隠しにそう言って肩をすくめると、
 「ちょっと待って」
 と (たぶん) 言いながら、
 「困った外人さんネ。これを使いなさい」
 と、スプーンをもう1本出してくれた。
 2本のスプーンを箸のように使って食べろと言うことである。
 スプーンを箸のように使うのも至難の技であるが、1本よりもマシである。
 苦労しながらもやっとのことで麺を口に入れることができた。
 麺は半透明で太い素麺のようだ。
 柔らかい稲庭うどんと言ったところだろうか。
 スープは見た目とは異なり、さっぱりとした薄味である。
 葉っぱのような物はそれ自体に強い香りがあり、全体の味にアクセントを付けていた。
 世話の焼ける外人を心配そうに見ていた店の母娘も、
 「とても美味しい!」
 と、夕べ覚えたラオ語で言うと、ニコッと嬉しそうな表情をした。



蝶が乱舞する町


 この町の中心地は南北に約600メートル、東西に約1キロで、ブラブラと歩くには丁度良い広さである。
 人々はのんびりとしていて親しみやすく、スレ違う人が必ず 「サバイディー (こんにちは) 」 とか 「チャオ」 と挨拶を交わしてくる。
 それは外人に対しての興味からの挨拶ではなく、極めて自然に交わされているものである。
 こちらも同様に挨拶を返すと彼らは一瞬おどろいた顔をし、照れ臭そうな表情をした。
 ラオス人はシャイな人が多い。
 
 町のほぼ中心に大きな市場があった。
 市場にしては活気に乏しいが、衣類や雑貨などを取り扱う店がたくさん並んでいた。
 市場内には狭い通路が縦横に張り巡らされ、一軒一軒を冷やかしながら歩くのがとても楽しい。
 しかし、ここはタイなどとは違い物売りはとても消極的で、店先で商品を眺めていても決して向こうから声をかけてくることは無かった。
 好き勝手に見て商品を選べる点では申し分ないのだが、冷やかしながらコミュニケーションを持つことは旅の楽しみのひとつでもあるので、少々物足りない気分である。
 商売に対してやる気が無いのでは? と思うほどだ。
 
 市場の周辺には闇両替のおばちゃん達がウロウロしていた。
 彼女たちも極めて消極的で、こちらと目が合うとスーッと近寄って来て、
 「キップ・・・チェンジ・・・」
 と小さな声で申し訳なさそうに言う。
 しかし、こちらに興味が無いことが分かると、すぐに退散してしまう。

 色々な種類の綺麗な蝶が乱舞するこの町は、人々が温和なのでたいそう居心地が良かった。
 
 散策の途中で薬局を発見する。
 日焼けで腫れ上がった足の痛みを和らげる薬を求め、店に入る。
 しかし、何と言えば通じるのだろうか?
日焼け≠ラオ語でも英語でも何と表現するのか、自分のボキャブラリーには持ち合わせていなかった。
 「サンシャイン・・・ハード・・・スキン・・・ホット」
 知っている限りの単語を並べて主張するが、お兄ちゃんは英語が分からないのか、こちらの発音が悪いのか、まったく通じなかった。
 困った挙げ句、お兄ちゃんの手を引っ張って店の外に連れ出し、ギラギラ輝く太陽を指差す。
 「サンシャイン、ハード、OK?」
 次に、自分の腕に指を突き刺す仕草を繰り返し、
 「スキン、ホット、ペイン」
 とTシャツの袖をめくり、真っ赤になった腕と日焼けせずに白い部分を対比させて見せた。
 「OK! OK!」
 一生懸命のジェスチャーがどうにか通じたらしく、陳列棚からフランス製の塗り薬を出してくれた。

 メコン川に沿ってさらに進むと、所々で木陰に座っている人たちから声が掛かった。
 「ボートツアーに行かないか?」
 喋り慣れた英語で誘ってきた。
 彼らは自分の小舟に客を乗せ、メコン川沿いの観光地を周遊するのだ。
 この町に来る時に立ち寄ったパクオー洞窟や酒 (ラオラーオ) 造りの村を巡って10$ (約1,200円) 程度だ。
 数人の船頭と交渉をおこない、サービスとして焼きイカ≠付けると言ったおばちゃんの舟に乗ろうと道を戻ったが、天気が怪しくなってきた。
 スコールがやって来る気配だ。
 もし途中で雨に降られたら、舟は高速で走るために傘を差すわけにもいかず、屋根の無い小舟の上でズブ濡れになってしまうのである。
 しばらく悩んだ末、今日のところはボートツアーを見送ることにした。
 
 モザイクの美しい 『ワット・シェントーン (シェントーン寺) 』 まで散歩する。
 
 昼近くになると気温はどんどん上昇してきた。湿度が低いとは言え、38度くらいまで上がる気温に、意識が朦朧としてしまうほどだ。
 フラフラと歩きながら辿り着いた、木々に囲まれた静かな食堂で昼食をとる。
 カーン川に張り出されたテラスからは、子供たちが川遊びをする光景が良く見えた。
 水は泥水なのできれいとは言えないが、崖の上から元気良く飛び込むたびに、楽しそうな歓声と涼しそうな水飛沫が上がった。
 
 昼食を終えると空はますます暗くなっていた。
 通りかかったトゥクトゥクに飛び乗り、ホテルへ戻る。
 ホテルに着くとすぐに激しい雨が降り出した。
 ボートツアーに出掛けなくて正解であった。



夕暮れの郷愁


 夕方には雨も止み、西の空には太陽が傾きかけていた。
 ホテルを飛び出すとメコン川に向かって足早に行く。
 絶好の夕陽ポイントを探し出し、出来ることならビールを飲みながら沈みゆく太陽を眺めるためである。
 
 幸いにも、絶好のレストランをすぐに見つけることができた。
 そこは川沿いに建てられており、2階のテラスに並べられたテーブルからは、メコン川 ―― と言うより対岸の山々に沈む太陽が良く見えそうだった。
 このルアンパバンは西側を山に囲まれているため、川に沈む太陽を拝むことはできない。
 
 ビールを飲みながら、太陽が茜色に変わるのをひたすら待つ。
 2本目を飲み終えた頃、太陽はやっと鮮やかな茜色に変化してきた。
 すぐ下の道路には家路に急ぐ人々が往来し、空には鳥の群れが列をなしてねぐらへ飛んで行く。
 こんな光景をボンヤリと眺めていると、むしょうに日本に帰りたくなるものである。
 たかだか2週間ほどの旅なのだが、夕方の光景というのは毎回のごとく軽いホームシックにかかる。
 それは、どんなに友達との遊びが楽しくても、夕方になったら暗くなる前に家に帰らなくてならないという、自分が子供の頃に母親から躾られたことが、大人になった今でも心の中で無意識のうちに自分をコントロールしているからなのだろうか。
 それとも、夜という闇の世界を目前に控え、人間が本能としての自己防衛を働かせるためなのだろうか。
 いずれにせよ、旅の空で一人このような光景に出会うと 「なぜ、旅に出てしまったのだろう?」 と弱気なことを考えることが多いものだ。
 
 空が赤くなり始めてからの太陽は、急に速度を増したかのようにどんどんと山に吸い込まれて行ってしまった。
 吸い込まれてもしばらくの間は山の端に色を残していたが、それもすぐに夜に塗り消されてしまった。



役立たずのインフォメーション


 翌朝は早起きをして托鉢風景を見ようと目覚し時計をセットした。
 寺が多いこの町の名物にもなっている光景である。
 オレンジ色の袈裟に身を包んだ坊主の列が、家を一軒一軒巡りながら食べ物を貰っていく。
 道という道は、すべて坊主で埋め尽くされるほどなのだそうだ。
 しかし、目が覚めた5時には窓の外は激しいスコールが降っていた。
 それが6時、7時と時間が経過しても一向に止む様子がなかった。
 8時半になりやっと雨は止んだが、すでに町の中に坊主の姿は無かった。
 
 ぬかるんだ足元の悪い道を昨日の露店まで行く。
 「困った外人さんがまた来たわ」
 とでも話し合っているのだろうか、店の母娘は何かを言いながらニコニコと迎え入れてくれた。

 この町のド真ん中に 『プーシーの丘』 という、150メートルほどの高台がある。
 午前中の涼しいうちにこの丘に登ってしまおうと、入場料4,000キップ (約50円) を支払って鬱蒼とした林の中に延々と続く石段を登る。
 328段の石段を汗をかきながら登りきると、頂上には小さいながらも寺があった。
 その周囲が展望台になっており、緑に囲まれたルアンパバンの町並みを手に取るように眺めることができた。

 今から25年前、ラオスに革命が起きるまでのこの国は 『ランサーン王国』 と呼ばれていた。
 その王国の首都がこのルアンパバンであり、丘の真下には当時の王様が住んでいた王宮が博物館として残っていた。
 残念ながら今日は休館日で建物内部に入ることはできなかったが、外観からもその栄華を知ることができた。
 この博物館には世界各国から贈られた宝物が陳列されているそうだ。
 
 ブラブラと歩いていると、インフォメーションと書かれた看板のある建物に出くわした。
 前庭のある立派な建物で、どうやら観光案内所のようである。
 明日はこの町からヴィエンチャンに向けてバスで出発する予定なので、そのバス乗り場の場所と発車時刻を知りたかった。
 前庭を行くと、ちょび髭を生やした怪しげな一人の男がこちらに近付いて来た。
 彼はここの職員のようだ。
 「ここは観光案内所ですか?」
 ちょび髭に英語で尋ねる。
 「イエス。ウエルカム、ウエルカム」
 英語が通じてひと安心だったのだが、ちょび髭はオーバーにも両手で握手をしながら 「ウエルカム」 を連呼した。
 「ヴィエンチャンに行くバスについて知りたいのですが・・・」
 「・・・飛行機で行きなさい」
 「いや、バスで行きたいんです」
 「飛行機なら1時間で行けますよ」
 ちょび髭は執拗に飛行機を勧める。
 「バスは走っていますよね?」
 「・・・たぶん」
 どうやらバスのことをあまり知らないようで、急に自信の無い言い方になってしまった。
 「バスターミナルはどこにあるんですか?」
 「・・・知らない」
 何とも役に立たない案内所である。これ以上は時間の無駄。ちょび髭に別れを告げると、
 「では、良いご旅行を」
 と、再び両手で握手を求めてきた。なぜか挨拶だけは欧米かぶれをしている。
 
 昨日行けなかった酒造りの村に行ってみたかったのだが、今日も雨雲が出始めてきた。
 ここは一旦、トゥクトゥクでホテルに戻る。



キュロッ?


 チェンコンで知り合った川口さんによると、バスターミナルは町から離れていて、出発時刻は早朝とのことだ。
 乗り遅れないためにも、前日にはトゥクトゥクを確保しておいた方が良いらしい。
 しかし、バスターミナルの場所も正確な出発時刻も分からない。
 (とりあえず、このおじさんに迎えに来てもらおう)
 ホテルに着いてトゥクトゥクを降りる時に交渉した。
 もちろん英語はまったく通じない。
 「明日・・・私・・・ヴィエンチャン・・・行く・・・」
 カンニングペーパーを見ながら、ラオ語の単語を並べていく。
 トゥクトゥクのおじさんはゆっくりと頷きながら、言葉の意味を理解してくれた。
 「バス・・・朝・・・行きたい・・・この・・・トゥクトゥク・・・」
 しかし、バスターミナルをラオ語で何と言うのか判らない。
 「ボーコーソー・・・パイロッメー・・・バスターミナル・・・」
 タイ語も英語もダメ。
 残る手段はジェスチャーしかない。
 「ラッマー、ラッマー、ラッマー」
 ラオ語でバスの意味であるラッマーを連呼しながら、手で何台も停まっている様子を表現する。
 すると、
 「キュロッ?」
 とおじさん。
 このキュロッ≠ェどうもバスターミナルのようだ。
 「そう! キュロッ! 明日の朝6時、キュロッに行きたい」
 おじさんはやっとのことで理解してくれたようで、「分かった。任せろ」 という仕草をした。
 おじさんと固い握手をして明朝の再会を約束する。
 一抹の不安はあったものの、すべてをこのおじさんに任せるしかない。

 正午過ぎから降り続いた雨が、夕方になって小降りになった。
 やっとのことで外に出ることができ、市場の近くの食堂で慎ましい夕食をとる。
 なぜか注文していない春巻きが1皿テーブルに運ばれた。
 「これ頼んでいませんよ」
 英語とジェスチャーで店員に伝えると、
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠、ノープロブレム」
 そう言い残すと店員はニカッと笑い、店の奥に引っ込んでしまった。
 何だか分からぬが、ノープロブレムだと言うのでサービスなのだろう。構わず喰っちゃえ。



停電の町


 食事の途中で突然停電になってしまった。
 扇風機も止まり、暑く暗い中での食事はせっかくの味が半減である。
 しかし、サービスと思われる春巻きはとても美味であった。

 食事を終えてから、食材を売る屋台で賑わう通りへ行く。
 屋台にはパイナップルやドリアンなどのフルーツが豊富に並べられていたが、中には少々ディープな物も売られていた。
 カエルの串焼きはまだ良い方で、巨大なコオロギやタガメ、ニワトリの頭を焼いた (トサカ付き) ものまで並べられていた。
 タガメはまるでゴキブリのようで気持ち悪い。
 聞いた話しによると、ネズミの丸焼きも売られているとか・・・ ラオス人の食生活には驚きの一言である。
 しかし彼らから見れば、タコやナマコを食べてしまう日本人の方が、よほど驚くべき存在なのかもしれない。
 明日の朝食用にカオニャオ (もち米を炊いたご飯) を買った。
 お茶碗3杯分ほどの量で1,000キップ (約12円) 。
 それを、お世辞にもきれいとは言えない手でビニール袋に入れてくれた。
 ここでは衛生≠どうのこうのと言っていては、何も口にすることはできない。
 
 ホテルに戻っても停電はまだ続いており、オーナーのオヤジさんが庭のテーブルでビールを飲みながら待っていた。
 こちらの顔を見るなり、申し訳なさそうに停電で真っ暗になっていることを説明してくれた。
 明朝の出発が早いことを告げ、ホテル代を精算してもらう。
 真っ暗なフロントでロウソクの明かりの下、計算をしてもらう。
 本来10$ (約1,200円) の宿泊料金を、赤十字料金で1泊8$ (約960円) にしてくれた。
 
 部屋の中は月明かりが差していて真っ暗ではなかったが、エアコンが動かないので蒸し風呂のようであった。
 シャワーでも浴びようと蛇口をひねったが、お湯は当然の如く水もまったく出なかった。
 このホテルでは給水にも電気を使っているのだ。
 何もできないので、2階のテラスに座り停電が回復するのをひたすら待った。
 いつもは早く寝てしまう町の人々も、今日だけは特別のようで、外で電気が来るのをのんびりと待っていた。

 ありがたい文明の火≠ェ灯ったのは、夜の8時を過ぎた頃であった。

(第四章 終)



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