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迷宮の異邦人  (第六章・鉄路の果てへ)

ドナドナ


 バスターミナルの前をロバ車がのんびりと通り過ぎた。
 次の目的地であるアクス行きのバスは9時半出発だが、8時を過ぎても切符売場が開く様子が無い。
 少しずつ切符を求める人々が窓口の前に群がって来たが、窓口内にいる係員のおばさんはそんなことには目もくれず、パソコンの掃除をしている。
 8時半を過ぎ、おばさんは机の鍵を開けて札束を数え始めた。
 窓口前に群がっていた乗客たちは口々に何かを叫びながら、握り締めた金を一斉に小さな窓口に差し入れた。
 それでもおばさんは知らん顔だ。
 しばらくの後、ワイワイとする客たちに一瞥を与えると、わざとのように見えるゆっくりとした動作で発券作業を始めた。
 すると、客たちはさらにすごい勢いで押し合いながら、窓口に手を突っ込んでいく。
 「コラッ! 並べよ、おい!」
 日本語の叫びは空しく響くだけだ。しかし、こちらも負けているわけにはいかない。
 さらに奥へと金を差し出し、
 「アーカースー!」 (アクスの中国語発音) と叫ぶ。
 幸いにもすぐに切符が手渡された。

 待合室はまだ閑散としており、係員の男女が楽しそうにそこで縄跳びをしながら騒いでいる。
 売店で食料や水を購入して待っていると改札が始まり、大きな荷物を抱えた人々の流れと一緒にバスへ向う。
 アクスへ向うバスはマイクロバスで、まだ運転手が来ていなかったので扉は閉ざされたままだった。
 もちろんここでも整列して待つはずもなく、狭い扉の前はすぐに乗客たちの押し合いが始まった。

 しばらくして運転手が扉を開けると、一人がやっと乗降できる幅しかないステップを、われ先にと乗車し出して大混乱を起こした。
 年寄りだろうが子供だろうが関係無い。
 力の強い者や要領の良い者から座席に着くことができる。
 このバスも定員制なので全員が必ず着席できるのに、なぜ人民諸君は目の色を変えてまで急ぐのだろうか?

 バスはロバ車で賑わう市場を抜け、ガソリンを給油しながらクチャの町を後にした。
 アクスまでは4時間の道程で、その途中では幾つかの小さなオアシスの町を通過した。
 ある町では道行くロバ車を何台も追い越した。
 そのロバ車にはどれも数頭の羊が乗せられている。
 その羊たちにどのような運命が待ち受けているのか、それはすぐに理解できた。
 歌詞の一節が頭に浮かぶ。
 ロバ車が延々と連なった先には広場があり、そこで羊たちが売り買いされていた。
 予想どおり、今日は羊市が開催される日だった。
 かわいそうだが仕方ない。
 この辺りの人々は、羊肉無くして食事は語れないほどにそれを多用する。
 我々の腹を満たしてくれる貴重な食材だ。

 このバスの中で、持病である腰痛が悪化してきた。
 ずっとバスに揺られ、さらに遺跡見学や天山観光で車に乗り通しだったので、腰に相当の負担がかかっていたようだ。
 窮屈な座席で体を曲げながら、腰が楽になる姿勢をとる。
 しかし、それでも鈍痛が体の中心に広がって辛い。



この手紙に、何か問題でも?


 午後1時半、バスは定刻どおりにアクスのバスターミナルに到着した。
 屋根に乗せたバックパックを受け取り、腰をいたわるように静かに背負う。
 すぐにタクシーに乗り込んで、町の中心にあるホテルへ向かう。

 アクスは久々の都会だった。
 ビルや団地が建ち並び、道路には車が溢れていた。
 歩道を行く人々の服装も現代中国だ。

 デパートを併設したホテル 『銀海大酒店』 は、町の中心にある交差点の角に建つ立派なホテルなのに、フロントではまったく英語が通じなかった。
 苦労の末にチェックインの手続きを終え、部屋のある9階の服務員に案内されて入った部屋は、まだ前の客が散らかしたままの状態になっていた。
 服務員は慌てる様子も無く、
 「掃除が終わるまでロビーで待ってろ」
 と言う。

 バックパックを部屋に置き去りにし、町の散歩に出かける。
 工事中の建物が多いこの町だが、デパートや映画館、公官庁がたくさんあり、新疆の西の商業都市としての役目を果たしているようだ。
 クチャで出しそびれていた絵葉書を投函しようと、郵便局へ行った。
 地図に書かれてあるその場所は工事中だったので、人に尋ねながら仮庁舎に入る。
 閑散とした局内には窓口が5ヵ所ほどあり、〈MAIL〉 と表示されている場所へ行くが局員がいない。
 「お〜い、誰かいないのか〜?」
 叫んでいると、別の窓口で貯金の業務をしていたおばちゃんが、面倒臭そうにやって来た。
 今、この局内にいるたった一人の係員だ。
 「日本に送りたいのですが…」
 英語で丁重に説明をし、数枚の葉書を窓口に差し出す。
 葉書にはもちろん中国文字でハッキリと 〈相手の宛先は日本国〉 と明記してある。
 おばちゃんはしばらくこの葉書を眺めた後、ポンとそれらを投げ返し、
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠…」
 と中国語で言い放った。
 「ごめんなさい。 中国語が分からないので、英語のできる方はいませんか?」
 こちらが一生懸命に懇願しているにも関わらず、おばちゃんはなおも迫力のある中国語で捲し立て、聞く耳を持ってくれなかった。
 「どうしました?」
 やっとのことで、奥から英語のできる若い局員がやって来た。
 おばちゃんはその局員に呆れた顔で何かを説明すると、別の窓口へ行ってしまった。
 この兄ちゃんは葉書を手に取ると、それを見ながらどこかへ電話をかけた。
 そしてカウンターから出て来て
 「フォローミー (ついて来い) 」
 と言うと、外へ歩き出した。

 ここから100mほど行った場所にある別の窓口が、国際郵便を取り扱っていたのだ。
 兄ちゃんはその窓口で別の局員に事情を説明し、葉書の束を手渡した。
 それを受け取った別の局員は文面をマジマジと見ると、困った顔をして上司らしき人の所へ何やら相談に行ってしまった。
 しばらくして戻ってきた局員は、
 「ノープロブレム」
 と言って、電卓をたたいて料金を表示してくれた。
 ここでは 「ノープロブレム」 と言われたが、何が 『プロブレム (問題) 』 なのかがこちらには理解ができなかった。
 日本に帰国してから、そのプロブレムが何だったのかを初めて知った。
 この間、新疆を旅していて絵葉書などのお土産≠売っている店が無かったので、クチャの町で郵便局を覗いてみた。
 そこには各種の絵葉書が売られており、郵便局が販売する物だからすでに国内での郵便切手が印刷された葉書だった。
 その葉書に文書や住所を目一杯に書いたものだから、差額の切手を貼る場所が無くなってしまったのだ。
 日本に届いた葉書には、紙面からはみ出して3種類の切手が窮屈そうに貼られていた。

 賑やかなアクスの町を散々歩きまわり、掃除の終わった部屋に戻って小休止をする。

 夜になって再び外出し、英語の通じない中国銀行で苦労をしながら両替をおこない、近くにあった大きな食堂に入る。
 一人で占領するには申し訳ないほどに大きな円卓に座り、焼きうどんのような炒面とビールを注文する。
 食事を楽しみながら日記を書いていると、従業員の若い女性たちが集まって来た。
 そして日記帳を覗き込みながら、読める漢字だけを指差して喜んでいた。
 やがて7人全員の従業員が集まってしまい、筆談での会話で盛り上がる。
 〈あなたは日本人?〉 〈通訳はいないの?〉 〈新疆は好き?〉 〈中国旅行は何回目?〉… 質問責めである。
 時々、別のお客さんが来店してそちらの給仕で数人が行ってしまうが、手が空くと再び戻って来てワイワイとやっていた。
 彼女たちからも中国語を色々と教わった。



「カーシー、カーシー、カーシー!」


 銀海大酒店は朝食付きで、2階のレストランにバイキング形式で用意されていた。
 餃子とシュウマイを合わせたような小籠包 (ショウロンポウ) がとてもうまく、何杯もお代わりをする。
 具の種類も多く、味の濃い熱々の肉汁が口の中に広がる。

 昨日よりも腰痛は軽くなっていたが、ここからカシュガルまでの10時間以上のバス旅は流石に不安もあり、やむなく列車で向うことにした。
 ホテルで列車の時間を確認するがよく分からず、それでも10時頃にアクス駅を出発することが分かった。

 アクス駅はタクシーで15分ほど行った町外れにあり、無駄に広い駅前ロータリーが印象的だ。
 駅前広場には客待ちをしているタクシー運転手が数人たむろしており、駅に向う自分に何やら言っているが、
 「カーシー!」 (カシュガルの中国語発音)
 とだけ言い返して切符売場へ急ぐ。
 駅は新しくて立派だが閑散としており、当分のあいだ列車は来そうになかった。
 時刻表を見ると、列車は一日に数本がこの駅に停車するだけのようだが、肝心の10時頃の列車が存在しない。
 次の列車は夕方まで待たなくてはならないようだ。
 (あっちゃ〜 今から急けば、まだバスの出発には間に合うな…)
 そんなことを考えていると、先ほどの駅前でたむろしていた運転手たちがやって来て、「カーシー、カーシー」 とホームの方を指差して叫び出した。
 「?????」
 ポカ〜ンとしていると、彼らは慌てて改札口へと手を引っ張って連れて行ってくれた。
 そこへ、緑色の機関車に牽引された長大な旅客列車が轟音と共に到着した。
 改札口にいる女性係員に
 「カーシー?」
 と尋ねると大きく頷くので、
 「切符は? 切符は?」
 と日本語で叫ぶと、やはり手を引っ張って別の窓口へ連れて行ってくれた。
 「カーシー、カーシー」
 と言いながら、料金を確認している間もないので100元札を差し出すと、窓口の係員は困った顔をして1元札を示した。
 当日発行の切符はこの入場券のようなものをひとまず購入し、列車の中で目的地までの切符を購入する仕組みのようだ。
 女性改札員に急かされながら荷物をX線検査に通し、やたらと広いプラットホームを走る。
 目の前に2階建て車両の出入り口があったので飛び乗ろうとしたが、係員がいて13号車から乗れと指示された。
 指差された13号車とは、遥か前方に見える車両である。
 確かにそこには人々が群がっており、乗り降りをおこなっているようだった。
 重いバックパックを背負い、長い長いホームをひた走る。
 これでは逆に腰に良くない。
 汗を流しながら到着した13号車に飛び乗ると、列車は予告もなく静かに車輪を回転させた。
 時刻は9時半。
 この辺りでは列車の時刻と言うものはあまりアテにならないようだ。
 砂漠の中を長距離で走って来るのだから、日本のように分単位で正確な運転など出来るわけが無い。
 改めて別の乗客に、
 「カーシー?」
 と尋ねると、大きく頷いた。
 結局、「カーシー」 の一言だけを叫んでいるうちに、どうにか列車に乗ることができた。

 車内は混雑していた。
 この列車は昨日にウルムチを出発した夜行列車なので、乗客たちは朝の洗顔や朝食でおおわらわだ。
 家族連れのボックスに空席を見つけて腰を落ち着ける。
 改めて周囲を見回すと、乗客たちのほとんどは朝食としてインスタントラーメンを食べていた。
 同じ席には高校生の男の子と女の子がおり、彼らは英語が話せたのですぐに親しくなった。
 通訳がいることで、それまでは無関心を装っていたおじさんやおばさんたちも会話に加わり、旅のこと、新疆のこと、彼らの生活のこと、日本のことなど、双方が片言の英語ながらも、久々に会話らしい会話をおこなって楽しい時を過ごした。
 彼らに教わって切符を買うこともできた。
 車内にある切符売場は相変わらずの無秩序な群集に囲まれていたが、それでもあまり待つこともなく比較的スムーズに手に入れた。

 車窓の風景は見飽きるほど見て来た荒地だ。
 やがて空には暗雲が立ち込めて、激しい雷雨となった。
 列車に叩きつける雨粒と風。
 数本の稲妻が鮮やかな閃光を発して大地へ落ちる。
 まさに光のショーを観ているようだ。
 そんな雷雨も30分と続かず、すぐに灼熱の太陽が照りつける乾いた風景に変わってしまった。
 しかし、そうなると列車の中は砂埃がひどく、ノートや本がすぐにザラザラになってしまうほどだ。

 幾つかの駅に停車をするうちに昼食の時間となった。
 乗客たちはまたインスタントラーメンを作っては、美味そうに食べ始めていた。
 彼らは、食べては床にゴミや食べカスをそのまま捨てるものだから、車内はゴミだらけであった。
 食料を持たずに空腹に耐えるおじさんは、同席の人々の温情を密かに期待していたのだが、誰からも 「食べる?」 の声は掛からなかった。
 東南アジアならこんな場合、必ずと言って良いほどお裾分けに与るものなのだが…

(第六章 終)



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