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迷宮の異邦人  (第五章・お手軽モンゴル体験)

双こぶラクダ


 翌日も謝さんに一日の観光を依頼した。
 昨日、遺跡に向かう途中で道が二股に分かれており、その一方の道は遥か山の方へ向かって延びていた。
 分かれ目には大きな看板が設置されてあり、そこには 〈天山 超AA級景観区〉 と書かれていた。
 Aが2つもあり、さらに 『超』 が頭に付くのだから、これは中国政府がイチ押しで眺めの良い場所に指定している所に違いない。
 謝さんもとても素晴らしい場所だと言うので、連れて行ってもらうことにした。
 但し、天山は標高が高く相当に冷え込むので、防寒用の上着が必要とのことだ。

 バックパックの底から長袖のシャツやセーターを引っ張り出し、準備万端で早朝の町を出発した。
 ウイグル人の居住区で朝食用にナンを購入し、車に揺られながらこれを食べる。
 昨日のナンは焼きたてで柔らかだったが、今朝のは冷めているのでとても硬かった。
 アゴが疲れる…

 見慣れた広大な荒地の一本道をひたすら走って行くと、少しづつ渓谷の風景に変ってきた。
 四方を取り囲んでいる赤い岩山が朝陽に照らされて輝いている風景を、ただ息を呑んでいつまでも見つめた。
 「てんしゃん、ゆき…」
 謝さんが指差した方向には、万年雪を抱いた天山山脈の峰々が雄大に聳え立っていた。
 手前の渇き切った岩山の風景とは実に対照的で、そのコントラストが実に鮮やかだ。

 突然、道の前方からラクダの大群が突進して来た。
 「らくだ、やせい」
 こんな光景はいつも見慣れている謝さんが、落ち着き払ってそう言った。
 このあたりに生息するコブが2つある野生のラクダだ。
 こちらの車に気付くと、彼らは一斉に道路脇の草むらに避難して、そこで嬉しそうに駱駝草を食べ始めた。
 車を降りて近付いても恐れる様子はなく、ムシャムシャと草を食べながら、呑気な顔をたまに上げてこちらを見るだけだ。
 カメラを向けると、愛嬌のある目を瞬きさせながらポーズをとってくれた。
 野生のラクダをこんなに間近で見られるとは、中国には恐れ入った。

 再び走り始めた車は、天山からの雪融水で豊富な水量を誇る川沿いの道を行く。
 途中にはこの川にかかる吊り橋もあり、謝さんと二人、まるで子供のように揺らしてはキャーキャーと騒いで渡った。



黒い集落


 どんどんと道も狭くなり、カーブも増えてきた。
 標高2,000mほどの場所だ。
 クチャの町から1,000m登って来た計算になる。
 このあたりには炭鉱の集落が点在していた。
 気を付けて見ていないと知らずに通り過ぎてしまうほど、それらの集落はどれも小さかった。
 部外者でも勝手に入って行けそうな間口の狭い坑口からは、石炭を満載にしたトロッコが人の手によって押し出されている。
 建物はレンガ造りで、坑道は頼りなさそうな木の柱で支えられている。
 そこで働く男たちは、皆黒い。
 家も道も、集落全体が黒い。
 羊や犬までもが黒い。
 黒以外の色が無い世界だ。
 どことなく物悲しい雰囲気は、ディズニーランドにあるビッグサンダーマウンテンの乗り場のようだ。
 まぁ、あちらはわざと造られた雰囲気でしかないが、こちらはすべて本物で、そこを生活の糧にしている人々が暮らしている。

 標高が高くなってくると気温も少しずつ下がってくる。
 それに応じて、Tシャツに長袖のワイシャツ、セーターと着込みながら、寒さ対策をしつつ車を走らせる。

 天山山脈の万年雪が手に取るように近付いて来ると、風景は中国からスイスへと変わる。
 山間に広がる青々とした草地には清らかな小川が流れ、羊たちが草を食んでいる。
 ハイジが遊んでいても不思議ではない風景だ。
 その草地の先には崖が立ちはだかり、そこには見事な滝が流れ落ちていた。
 日本の観光地だったらすぐに、『銀河の滝』 とでも命名してしまいそうな流れだ。
 その滝を幾度も横切るように、道路が続いていた。
 今回の目的地である 『大龍池』 への最後の難所だ。
 白く一筋に落ちる水を浴びながら、車は急勾配の道を左右に揺られながら登って行く。
 滝のちょうど中間ほどの場所に、一軒のゲル (モンゴル人の移動式住居) が建っていた。
 「ゲル! ゲル!」
 指差して叫ぶと、謝さんは車を停めてくれた。
 そのゲルを目指し、滝の横の斜面を二人で登る。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠!」
 そのゲルに向って、謝さんは中国語で何かを叫んでいる。 「誰かいますか?」 と言っているようだ。

 ゲルに近付くと、中からは赤ちゃんを抱っこした若いお母さんが出て来た。
 工藤夕貴に似たそのお母さんは、まだ10代のように見えた。
 突然の訪問者に彼女は戸惑うこともなく、手招きをして快く家の中に招き入れてくれた。
 6畳ほどの広さの室内には全面に暖かな絨毯が敷かれ、ストーブが赤々と燃えていてホッと落ち着く感じだった。
 円形の室内には小さな台所とわずかな食器、そして大きな衣装ケースのような家財道具が2〜3個あるだけの、いたってシンプルなものだった。
 彼女は新しくて綺麗なジュータンを敷くと、そこに座れと勧めてくれた。
 そして、ストーブにかかっているやかんから湯を注ぎ、お茶をご馳走してくれた。
 謝さんが中国語で彼女と話す内容を文字に書いて教えてくれた。
 それによれば、彼女はモンゴル族で、新疆の北部からご主人と3人で羊の放牧のためにここに来ているとのことだ。
 ご主人は今、羊の世話で外出中だ。
 カメラを向けても快く笑顔で応じてくれ、部屋の中や彼女たちの写真を撮らせてもらう。
 わずかな時間の訪問だったが、彼女は我々が崖下の車に戻るまで、赤ちゃんを抱いたまま手を振り続けてくれていた。
 嬉しいことに、旅人には最高のもてなしをするのが遊牧民である彼らの慣習だ。

 滝を登り詰めるとすぐに 『小龍池』 があった。
 岩が見事に配置された庭園のような草地に囲まれた池は、その水の色が神秘的だった。
 「頭は痛くないか?」
 と謝さんが気遣う。
 ここは標高が3,500mの地。 富士山とほぼ同じ高さの場所なのだ。
 クチャの町から4時間で一気に登ってきたので、軽い高山病になることもあるのだそうだ。

 小龍池を眺めながらしばらく行くと、『大龍池』 が広がった。
 池はへの字≠ノ曲がっているために全景を見ることができず、静かな水面は周囲の雪山を屈折させることなく忠実に写し出していた。
 古代の人々がここに龍が住んでいると信じていたことが、科学の時代に生きている人間でも素直に頷ける気がする。
 それにしても、池と呼ぶには大き過ぎる広さだ。



おやじ3人、草原にたたずむ


 池のほとりに一隻の船が停泊していた。
 その近くに小屋が建っており、そこにいた夫婦に謝さんが声をかけたら、20元 (約300円) で船を出してくれると言う。
 彼らは漁師で、この池で魚を採って生活をしている。
 年期が入った鉄の船に乗り込むと、豪快なエンジン音と共に真っ黒な黒煙を上げ、船はゆっくりと岸を離れた。
 池の中心は雪山からの冷たい風が直接吹きつけているので、甲板の我々はしばし寒さとの戦いだった。
 それでも周囲の素晴らしい景色に体が熱くなっていく。
 池を半周ほどし、対岸の草地に上陸した。
 この静かな草地におやじが3人並んで腰を降ろし、池をぼんやりと眺める。
 (ここまで来て良かった!)
 クチャでは遺跡見学を終えたら次の町へ移動しようと思っていたのだが、それが超AA級の看板に誘われて滞在を一日延長した。
 でもその甲斐あって、暑くて乾き切ったシルクロードの風景とはまったく違う、この雄大な景色に出会うことができたのだ。
 自分の選択の正しさと気まぐれに感謝。

 船を降りてから高台に登って池を眺めた後、池の先端まで足を伸ばす。
 池のほとりに大きく広がる草地の周囲はちょっとした集落になっており、山を越えて放牧にやって来たモンゴル族の人々で賑わっていた。
 草地には多くの羊が放たれ、それを馬に乗った彼らが見回っている。
 そんな光景を眺めながら我々は昼食にした。
 それは、謝さんがクチャの町で買って持って来た 『揚げパン』 だ。
 質素な食事だったが、済んだ空気の中で食べるそれは、この旅で一番おいしかった食事となった。



馬乳酒


 周辺を散策していると、一軒のゲルから招き入れられた。
 中では3人ほどの男たちが食事をしていたが、やはり綺麗なジュータンを敷いてくれると、そこに座れと勧めてくれた。
 さらに、白濁した液体を器に入れて持って来た。
 そして、「飲め、飲め」 とジャスチャーで勧めている。
 一瞬、躊躇していると、「こうやって飲むんだ」 と言うように、彼らも自分の器に入った飲み物を一気に呷った。
 真似るようにして飲む。
 牛乳のようだがピリッと刺激がある。
 モンゴル族では一般的に飲まれている馬乳酒だった。
 アルコール度数は極めて低いが、体が少し温まってくる。
 「うまい!」
 あまり美味くは無かったが、彼らのもてなしに感謝してそう言うと、
 「んじゃ、もっと飲め!」
 と、お代わりを注いでくれた。

 謝さんの提案で、車の中で少しばかりの昼寝をすることにした。
 彼も朝からずっと運転をしてきたので疲れているようだった。
 車内の後部と前部に分かれて横になる。
 聞こえてくるのは、鳥と羊の鳴き声、風の音、そして謝さんのイビキ。
 いつしか自分も夢の世界へ…
 先ほど馬乳酒を飲んだせいか、うまい日本酒を飲んでいる夢を見た。
 肴の刺身や肉じゃが、焼き鳥も美味い…
 もう一杯、と言うところで起こされた。
 クチャの町へ帰る時間だ。

 大龍池、小龍池を過ぎ、工藤夕貴のゲル近くでクラクションを鳴らすと、彼女が出てきて手を振ってくれた。
 数々の黒い炭鉱の集落を過ぎ、セーター、シャツを少しずつ脱いでいく。風景は渓谷から荒地に変わり、赤い岩山を過ぎると見慣れたポプラ並木の道となった。

 夕方の6時、2日間お世話になった謝さんと握手をして別れた。

 バザール近くの食堂で 『拉条面 (ラグメン) 』 と生温いビールで夕食とする。
 この食堂、見た目はきれいなのだが、店内には無数のハエが飛び交っており、なんとも落ち着かなかった。

(第五章 終)



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