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マグレブの夜明け  (第六章・砂の上の年越し)

雄大なアトラス越え


 12月31日。
 今日で2002年も最後だ。
 今日はホテルで申し込んだツアーでサハラ砂漠に向かい、新年を迎えてからマラケシュに戻ってくることにした。
 一昨日にこのツアーを申し込んだ時は、まだ我々の2名しか参加者がいなかったので、ツアー代金は1人1,200dh (約14,400円) だった。
 しかし、当日の朝までに集まった人数は14名となり、代金は650dh (約7,800円) まで下がっていた。
 我々以外はみな欧州人で、一行は一台のワゴン車に乗り込んで、朝陽が昇り始めた静かなマラケシュの町を出発した。
 これから2日間を共にする各国の寄せ集めメンバーは、わがまま三昧のフランス人の男女6名グループ、愛想の良い若いフランス人カップル、気の強い奥さんとその尻に敷かれている旦那のスペイン人夫妻、この砂漠ツアーには少々無理がありそうな繊細な神経の持ち主のイギリス人夫妻、そして日本人おやじが2名と、モロッコ人のおやじドライバーだ。
 車内では特に自己紹介などといったものは無く、淡々とツアーは進んでいった。

 眩しい朝陽を真正面から浴びながら、車はアトラス山脈を越えるためにどんどんと高度を上げていく。
 眺めの良いポイントではこまめに休憩時間をとってくれる、心遣いのあるドライバー氏だった。
 やがて道は本格的な峠越えとなり、岩がゴロゴロと転がっている荒涼とした九十九折れを、激しく左右に揺られながら登って行く。
 まるでアメリカのグランドキャニオンのような風景がいつまでも続き、その先には周囲の景色とは対象的な雪山の峰々が間近かに見えていた。

 数時間もかかって越えたアトラス山脈の向こうには、砂漠ならぬ土漠がどこまでも広がっていた。
 その乾き切った大地に、土と同じ色の目立たない住居が点在していた。

 マラケシュを出発して4時間後、車はアイト・ベン・ハッドゥ村に停車した。
 ここは乾き切った丘の斜面に日干しレンガを積み上げた要塞の村 (クサル) があり、その芸術的なまでに美しい光景で有名な場所だ。
 その美しさと保存状態の良さから、『アラビアのロレンス』 や 『ナイルの宝石』、最近では 『ハムナプトラ2』 などの映画が撮影されたロケ地でもある。
 駐車場から村を抜け、橋代わりの飛び石を伝って川を渡るとクサルに着いた。
 狭い急斜面を登り、門をくぐると村の広場に出た。
 広場と言えるほどの広い場所ではないが、婚礼や集会がここでおこなわれたそうだ。
 その広場にはじいさんが待ち構えており、これより先に行くなら金を払えとしつこく言い寄ってきた。
 無視して行こうとすると行く手を阻むので、金を払ってまでも進む価値は無いと判断して引き返した。
 負け惜しみではないが、このクサルは遠くから眺めた方が断然に美しかった。



ワルザザードの昼食


 車はさらに南下し、土漠に突然開ける明るい町・ワルザザードに到着した。
 この町で昼食休憩をとることになったのだが、車は町のかなり外れにある高級ホテルに停車してしまった。
 この中にあるレストランで食事をしろと言うことだ。
 ホテルのボーイに案内されるまま中へ進んだ。
 重厚な感じのロビーを抜けると、プールサイドにテーブルが出された高そうなレストランに着いた。
 ところが、ここにいるのは我々とイギリス人夫妻の4人だけで、後から付いて来ていたはずの他の人たちがいなかった。
 ホテルの入口まで戻ってみると、ドライバー氏が彼らに取り囲まれて激しい抗議を受けていた。
 「何でこんな高い店に連れてくるんだ!」
 と、吊るし上げを食らっていた。
 これにはドライバー氏も逆らうわけにはいかず、再び車に乗ってワルザザードの中心地まで戻った。

 ここにはたくさんのレストランやマーケットもあり、自由に食事休憩をとることができる。
 早速、オープンテラスのレストランに入って昼食にした。
 砂漠に近付くほどに気温も高くなってきて、食事前にビールで喉を潤したかった。
 ところが、モロッコのほとんどのレストランがそうであるように、この店にもアルコール類は置いていなかった。
 しかし幸いなことに、真向かいのマーケットにアルコールが売っているそうだ。
 すぐに買いに行き、持ち込みの酒を楽しむ。

 1時間半の休憩が終わり、指定された集合場所へ行く。
 ところが、出発の時間が過ぎても全員がなかなか揃わなかった。
 ちゃんと時間までに戻ってきたのは我々の他、イギリス人夫妻とフランス人カップルだけで、あとの8人は15分も遅れてやって来た。彼らは慌てる様子も無く、平然と歩いて戻って来た。

 ワルザザードの町を過ぎると、再び荒涼とした山道が延々と続いた。
 乗客たちが午後のまどろみの中でぼんやりとしていると、車内にタバコの匂いが充満した。
 このツアーでは車内禁煙となっているのに、最後部の座席に座っていたフランス人グループの女がタバコに火を点けたのだ。
 ドライバー氏がミラー越しにそれを見つけて注意をすると、女は突然に大声で泣き出してしまった。
 すぐに車は路肩に寄せられ、休憩をすることになった。
 ドライバー氏が女に理由を尋ねたところ、彼女は車の狭さにストレスが溜まり、耐え切れなくなって火を点けてしまったとのことらしい。
 わがままにもほどがある。
 タバコが吸いたいのならそう言って、休憩を求めるのが普通だろう。
 自己中心的な欧州人に嫌気が差した。



ラクダの上の満天の星


 すっかり陽も暮れて暗くなってしまった6時半、サハラ砂漠への入口であるマアミド村に到着した。
 ワゴン車は高そうなホテルの前に停車し、ドライバー氏は我々にそこで待つように指示した。
 「ここから先はどうするのか?」 「一体何を待つのか?」 よく分からない不安のまま、ホテルのテラスで待った。
 硝子越しに見える広間では、砂漠の民が剣を振り回して踊りの練習をしている。
 新年を祝う舞なのだろうか?

 待つこと30分。ラクダの群れが我々の目の前にやって来た。
 「いや〜、砂漠らしいねぇ〜」
 と、呑気なことを言っていると、このラクダに一人一頭ずつ乗れと指示された。
 ここから先はこのラクダの背中に揺られて進むのであった。

 愛らしい大きな瞳に長いマツゲ ―― 癒し系の代表的な顔をしたラクダは、腹ばいになって我々が乗るのを待っている。
 手摺をしっかりと掴んで背中にまたがると、ヒョイとその大きな体を起こして立ち上がった。
 ラクダの背中は想像以上に高い位置にあった。

 全員が乗り終えると3頭ずつロープでつながれて一列になり、砂漠の民のおやじに引かれながら砂の中へと入って行った。
 最初のうちは村の灯りがあったのだが、やがて人工的な光りの無い世界へとなってきた。
 道は全く見えない。
 いや、道と呼べるようなものは無い一面の砂のようだ。
 それでも砂漠の民は迷うことなく、何を目印に歩いているのかとても疑問だが、ある方向を目指して黙々と歩き続けた。

 急に気温も下がってきた。
 日中と夜の気温差が砂漠では激しいことは聞いていたが、ここまで気温が下がるとは思ってもいなかった。
 空には満天の星が輝いている。
 記憶をたどると、これほどまでに数多くの星の瞬きを眺めたのは、池袋・サンシャインプラネタリウムに行ったとき以来だ。
 いくら眺めていても飽きない。
 これが大晦日の、しかもラクダの背中の上という状況だけに感動もひときわ大きい。
 時折、すぐ後ろを歩いている桑ノ助のラクダに背中のリュックを引っ張られたり、ゲップをして臭い息を吐きかけられたりしたが、相手が可愛いラクダだけに怒る気をまったく起きず、これも旅の想い出として楽しんだ。

 どこをどう歩いて来たのかまったく分からないが、2時間近く揺られ、どうやらキャンプ地に到着したようだ。
 暗闇に目を凝らして見ると、大きなテントのような物が幾つか見えた。
 砂漠の民のおやじが号令をかけると、一斉にラクダが腹ばいになった。
 不安定な砂の上に足を降ろすと股間に激痛が走った。
 乗り慣れないものに2時間も揺られていたので、一気に筋肉痛になってしまったようだ。尻も痛い…
 ガニ股になりながら、おやじの後に従ってテントに入る。
 14人全員が入るとお世辞にも広いとは言えないテントの内部は、心細いロウソクが2本だけ灯っていた。
 英語が話せるグループとフランス語のみのグループに自然と分かれて車座に座ると、まずは暖かい茶が振舞われた。
 冷え切った体にはとても嬉しい。
 そして夕食が用意された。
 テーブルの上にはアラビアパンと大鍋のタジンが置かれ、それを慎ましやかに皆で突っつき合う。
 あまり美味しくはなかったが、こんな砂漠の真ん中では文句は言えない。

 会話が弾むことも無く、そそくさと食事は終了した。
 皆がテーブルの上に唯一灯るロウソクの火を、ボンヤリと見つめていた。
 そして、全員の関心事はただひとつ、「どこに寝るのだろうか?」 と言うことの一点だ。
 黙ってロウソクの灯かりを30分以上も眺めていただろうか。イギリス人の夫人が呟くように言った。
 「私たちのベッドルームはどこかしら?」
 その言葉を聞いて、全員が堰を切ったように喋り出した。
 「早く案内して欲しいよね」
 「ツインのテントなのかしら?」
 「暖房はあるのかなぁ?」
 今思えば、まったく脳天気で贅沢なことを話し合っていたものだ。
 「まさか…ここではないだろうね…」
 皆が心の中では思っていたことなのだが、それを口にすることは恐ろしくてできなかったセリフを、勇気を持った誰かが口にした。
 すぐにまさか は現実のものとなった。
 テーブルを片付けに来た砂漠の民に、ジャスチャーで
 「どこに寝るの?」
 と尋ねると、彼は
  「ここだ」
  と即答した。
 隙間だらけの薄いシートのテントに、床は毛布を数枚敷いただけ。
 配給された毛布はとても重くてザラザラしていた。
 冷たいマットレスは寝返りができないほどに狭い幅のものだった。
 配給された毛布一枚では寒くて眠ることが出来ない。
 別のテントに保管されていた毛布を略奪に行くが、全員に行き渡る数は無く、2人で3枚程度の薄く重い砂混じりの毛布で夜を明かすことになった。
 服を着たまま、そして靴を履いたままの就寝に、
 「これじゃあ、仮眠もできねえなぁ〜」
 と言っていた桑ノ助は、横になった途端にイビキをかいて熟睡した。
 何とも図太い神経の持ち主だ。

 このキャンプでは困ったことがもうひとつあった。
 それはトイレだ。
 「トイレはどこかしら?」
 女性の質問に、
 「この一帯すべて」
 と砂漠の民は平然と言い放った。
 女性は大変だ。
 夜は真っ暗闇だから覗かれる心配はあまりないが、その場所へ行くまでがひと苦労する。
 足下のおぼつかない砂の上を、懐中電灯の頼りない光だけで行くのである。
 用を足していても恐くて落ち着かないだろう。
 ま、しかし、こんな砂漠にウォシュレットのトイレや熱いシャワーがあることの方が不自然で、砂漠に来たら砂漠の生活を体験するのが当たり前のことなのだ。
 それを求めてツアーに参加したのであろうから。

 もうすぐ新年を迎えようとしているのに、陽気なはずの欧州人たちは寒さに震えながらテントの中で毛布に包まっていた。
 外では砂漠の民が、歌や太鼓を響かせて新年の到来を迎える宴を催している。
 そのリズムを聴きながらウトウトとしていると、突然に歓声が上がった。
 そして乱打する太鼓の音 ― 2003年が幕を開けたようだ。
 しかし、砂漠の民はこの後に一曲歌っただけで、静かに解散してしまった。

 テントの外は異様なまでに静寂が包み、聞こえてくるのは恐竜のようなラクダの鳴き声と、すぐ隣で気持ち良く眠る桑ノ助のイビキだけだった。



初日の出は砂上に昇る


 眠っているのか起きているのか分からない状態のまま、朝を迎えた。
 時計の針は7時を指していた。
 疲れの抜けない体を引きずってテントから出る。
 外はまだ薄暗く、空気は冷え切っていた。他の人たちはまだ起きていないようだ。
 砂の上に目を凝らすと、小さな黒い塊が幾つか見えた。
 人だ。 砂漠の民が毛布一枚だけで、砂の上にそのまま眠っていたのだ。
 一人のおやじが自分の姿に気付き手招きをした。
 近付いて行くと、彼は焚き火を点けてくれた。
 その火に二人で黙ったまま手をかざす。 暖かい。

 やがて空が少しずつ明るくなってきた。
 昨夜まで、ここは見渡す限りの砂の世界と思っていたのだが、東の方には高い山が見えていた。
 その山の稜線が黒色から銀色の線に変わった。
 そして、その細い糸のように見える稜線から放つ光が、白く大きく膨らんだ瞬間、夜明けが訪れたのであった。
 2003年の初日の出は、サハラ砂漠の上で拝むことになった。
 「おめでとう。今年もよろしく!」
 熟睡から目覚めた桑ノ助も、この感動的な夜明けを我を忘れて眺めていたようだ。

 陽が完全に昇ってくると、それまで冷え切っていた空気がどんどんと温められていくのを感じる。
 太陽の偉大さとありがたみを感じる瞬間でもあった。
 「いや〜、風邪ひいて喉がおかしくなっちゃったぁ〜」
 そう言えば桑ノ助の声がハスキーになっている。
 それはそうだ。 あの極寒のテントで熟睡すれば風邪だってひいてしまうだろう。
 砂漠の民が熱い茶を入れてくれ、それとパンで朝食にする。
 桑ノ助と二人で新年を祝い、ワルザザードで買い込んだ缶ビールを開けて乾杯した。
 寒さと寝不足で疲れ顔のまま、黙々と食事をする欧州人たちからは、
 「こんなに寒いのに、しかも朝からビールかよ。クレージーな日本人だぜ」
 と、冷めたい目で見られてしまった。

 朝食後に休む間もなく、再びラクダに乗ってマアミド村に戻る。
 相変わらず股間と尻が痛いが、これに乗らなければ2時間近くも歩かなくてはならないので我慢するしかない。

 明るい所を行くラクダの2時間はあっと言う間だった。
 出発地のホテルに戻り、洗面を済ませる。
 全員が揃った10時半にワゴン車はマラケシュに向かって出発した。

 ワルザザードで昼食休憩をとり、小休憩を繰り返しながら賑やかなマラケシュに到着したのは、夜の7時を過ぎた頃だった。
 そのまま、水はけの悪いホテルにチェックイン。
 幸いにも前回とは別の部屋で、思う存分に熱いシャワーで砂を洗い流すことができた。
 この時ほど、湯や水が自由に使える喜びを感じたことはなかった。

(第六章 終)



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