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マグレブの夜明け  (第四章・トラブル続きのバスの旅)

遅れてきた乗客


 モロッコは霧の多い国だ。
 この日は早朝にフェズを出発し、西に400キロ離れたマラケシュにバスで移動した。
 日の出前のフェズの町は濃霧に包まれていて、オレンジ色の街灯がぼんやりと灯って見えた。

 国営バスのターミナルには、すでに何人かの旅行者が眠そうな顔をして出発を待っていた。
 事前に切符を購入していた我々もその中に混ざり、同じように眠い目をこすりながら待った。
 しばらくすると一人のお兄ちゃんが待合室にやって来て、キョロキョロと辺りを見回した。
 そして我々の方に目を止めると、真っ直ぐに近付いて来て、フランス語で唐突に話しかけてきた。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠…」
 こちらがぽかんとした顔をしていると、なおもフランス語で捲くし立て、ジェスチャーを交えて何かを訴えている。
 どうやら、我々が足元に置いている大きなバックパックを、どこかへ運びたいような事を言っているようだ。
 「ポーターなんじゃないの?」
 桑ノ助が彼の言いたいことを理解したようだ。
 「すぐ目の前のバスに運んでチップを要求するんだよ。 朝の小遣い稼ぎじゃないの?」
 「あ〜、そうみたいだね」
 「無視しておけば諦めるよ」
 「そうだね」
 そう結論付けた我々は、兄ちゃんに 「Non!」 ときつく一言を発した。
 兄ちゃんは諦めたようで、やがてどこかへ行ってしまった。
 ところが今度は、制服を着た職員のおやじを伴って戻ってきた。
 職員のおやじは英語を話すことができ、彼が言うには我々の荷物は大き過ぎるので、車内に持ち込むことが出来ないとのことだ。
 兄ちゃんは正規の職員だったようだ。
 促されるままにバックパックを持ち、手荷物預け所へ行く。
 職員のおやじは我々の荷物の重量を量り、バッゲージタグを我々に手渡した。
 そして1個につき10dh (約120円) を請求してきた。
 手荷物は預けても持ち込んでも無料と聞いていたので、この請求は正規のものなのかどうか分からないが、モロッコ国営バスのビシッとした制服を着たおやじには、逆らうことがはばかれた。

 バスは白い車体の高級な大型観光バスで、乗降扉が前方と後方の2ヶ所にあった。
 窓も大きくて座席も柔らかく、定員以上に客を乗せないのでゆったりとした快適な旅ができそうだ。
 乗務員は運転手の他に、愛想の良い車掌のおやじが乗務していた。
 8割程度の乗客を乗せたバスは定刻の6時半に、まだ夜の明け切らない濃霧のフェズを出発した。

 もともとバスターミナルが町の外れに位置しているので、走り始めるとすぐに広大な丘陵地帯の風景となった。
 霧が晴れてくると、この丘の上にぽっかりと丸い月が顔を出した。
 どこまでも真っ直ぐな一本道を快調に走っていると、後方から物凄いスピードで乗用車がやって来た。
 そしてバスに追いつくなり、けたたましいクラクションを鳴らし、バスを追い抜いて前方に停車した。
 それに呼応するかのようにバスも路肩に停車。
 何事かと見ていると、乗用車から数人の男たちが降りてきて、車掌と二言三言の会話を交わしてバスに乗り込んできた。
 どうやらバスに乗り遅れ、乗用車で追いかけてきたようだ。
 このような事はモロッコでは日常的なようで、乗り遅れた客が車で追いかけてくることが、この後にも幾度かあった。
 中には乗用車を路肩に放置したまま、ドライバーごとバスに乗り込んできた客もいた。
 いったいあの車はどうするのだろうか?
 そのたびにバスが停車するのも甚だ迷惑だが、遅れてやって来た乗客が、乗降扉で友人と抱き合って別れを惜しむことはもっと迷惑だった。
 これがモロッコ人の挨拶であることは分かるが、我々はその間を待たなくてはならないのだ。

 バスはいくつかの小さな町のバス停を経由し、そのたびに客の乗り降りがあった。
 ある町からは変わった客も乗ってきた。
 「見てみろ、見てみろ」
 真っ先にそれを見つけた桑ノ助は、目を真ん丸く見開いて小声で叫んだ。
 手錠をかけられた4人の男たちが、ゾロゾロと車内に乗り込んできたのだ。
 最後には屈強そうな2人の刑事も乗り込んできたが、路線バスが容疑者の護送に使われているとは驚きだ。
 「映画の撮影かと思ったよ」
 日本ではあまり考えられないことである。



女性同士の大喧嘩


 珍客の後はトラブルだ。

 やや大きな町のターミナルに停車したバスは、エンジンを切ってしばらくの休憩となった。
 我々の前に座っていた若い女性が、座席の下に大きな荷物を置いたままバスを降りてトイレへ行った。
 その間にこのターミナルから乗り込んできた乗客がいた。
 中年の女性が3人と7歳くらいの少女で、彼女らは親戚同士のようだ。
 彼女たちは大きな荷物の置いてある我々の前の席に座ってしまい、何食わぬ顔で出発を待っていた。
 しばらくして、若い女性がトイレから戻ってきて喧嘩となってしまった。
 「そこは私の席よ!」
 「何を言ってるの。あんた座ってなかったでしょ!」
 「そこに荷物が置いてあるでしょ!」
 「関係ないわよ!」
 「後ろの方にいくらでも席が空いてるでしょ!」
 「私たちはここに座りたいのよ!」
 お互いに興奮してきた2人は、鼻から空気の抜けるフランス語で激しい口論となった。
 定員制のバスなので座席はちゃんと空いているのだ。
 それなのに、眺めの良い一番前の座席を巡って大の大人が激しい喧嘩を繰り広げたのだ。
 しばらくは静観していた運転手と車掌が割って入ったが、彼女らの語気が弱まることはなかった。
 次第に双方の顔色が赤くなってきたと思ったら、突然に中年女性の右手が若い女性の頬にヒットした。
 そこからは一瞬にして二人がもみ合いとなり、パンチの応酬に発展だ。
 運転手と車掌が揉みくちゃになりながら二人を抑えようと必死になり、犯人護送中の刑事もやってきたが、狭い車内では二人を引き離すことができない。
 そうこうしているうちに、激しい勢いでサイダーがぶちまけられた。
 興奮した中年女性の連れが、よく振ったサイダーの栓を抜いて二人にかけたのだ。
 まるでプロ野球のビールかけのように…
 もちろんこのサイダーは仲裁に入っている車掌や運転手にもかかり、すぐ目の前で呆然としている我々もとばっちりを受けた。
 やっとのことで制服警官が駆け付けてきて、二人を車外に引きずり出した。

 外に出されてもなお大声で罵り合う二人。
 車内では残された少女が興奮して泣き叫んでいた。
 サイダーで頭からびしょ濡れになった車掌が少女をなだめたが、泣き止むどころかさらに興奮して母親を追って外へ出ようとしている。
 たかが座席のことで殴り合いの喧嘩になることに可笑しさを隠し切れず、桑ノ助と二人で思わず大声を上げて笑ってしまった。
 すると少女がキッと我々を睨みつけ、母親同様に激しい口調で怒鳴り出した。 血は争えないものだ。

 30分以上にわたって言い争った後、若い女性がこれまでどおり我々の前の席に座ることで一件落着した。
 天井からサイダーの雫が滴り落ちているバスは、重々しい空気のままに再び出発した。
 若い女性を気遣い、まだ頭が濡れたままの車掌が彼女の隣に座った。
 彼女は泣きながら、まだ強い語気で車掌に何かを訴えていた。
 「私は悪くないわよね?」
 「ああ、そうだね・・・」
 とでも会話しているようだ。



バスが捕まった!?


 「急ぐことは悪魔の仕業」 と先述したが、車の運転に関してはこの教えは通用しないようだ。
 モロッコ人の自動車運転を見ていると、かなりせっかちな様子が分かる。
 交差点では信号が赤から青に変わった瞬間に発進しなければ、必ず後ろの車からクラクションを鳴らされる。
 道路に面したカフェでお茶を飲みながらこの様子を見て、モロッコでは2台目の車が先頭の車に信号が青になったことを教える習慣があるのかと思ったくらいだ。
 信号が青になるたびにブッブーと鳴らされるクラクションに、モロッコ人の性格を見たようだ。

 走行中もこの性格は変わらず、狭い道路でもかなりのスピードで飛ばしている。
 路線バスでも同様で、どんどんと前を走る車を追い越して行った。
 対向車とぶつかりそうになりながらも、小刻みに右に左に車線を変えていた我らのバスは、見通しの良い直線道路で警察官に停止を命じられてしまった。
 路肩にバスを停車させ、木陰にいる警察官の所へ向う運転手を、心配そうな顔をした車掌が見送った。
 追い越し禁止の違反をしてしまった運転手は、交通違反切符を切られていた。
 国営の路線バスが交通違反で捕まるとは、モロッコは何とも驚きの国である。

 喧嘩やら違反やらで予定の到着時刻を大幅に遅れてしまったが、夕方の4時にマラケシュの新市街に到着した。
 プチタクシー (市内を走るタクシー) に乗り、旧市街にあるホテルへ向う。
 陽気なタクシーの運転手は、観光案内をしながらマラケシュの名所であるジャマ・エル・フナ広場を目指した。

(第四章 終)



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