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ゆるり、ゆるゆる、ラオス旅 (第二章) |
友好橋を越えて 翌朝、ホテル前にたむろしていたトゥクトゥクは 「100バーツ」 だと吹っかけるので、 「バカこけ!」 と無視して流しのトゥクトゥクに交渉したら、「40バーツ」 で行くと言った。 町の中心からラオス国境の橋 (=友好橋) まで、トゥクトゥクで10分ほどだった。 イミグレーションは場違いな感じの立派な建物で、早朝だったせいか、人も車も数えるほどしかいない。 小さなボックスの窓口にパスポートを出すと、タイの出国スタンプがポンと押され、あっけなく出国手続きが完了。 その先にヒマそうなおやじがテーブルを出しており、手招きをされるままに行くと、 「バス、20バーツ」 と言って、橋を渡るバスのチケットを渡された。 この橋は歩いて渡ることができないので、ここからメコン川の上をバスで越えなくてはならない。 しばらく待っていると、普通のワゴン車がやってきた。 これがバスだと言う。 「どう見ても、ワゴン車じゃん」 このバス≠フ乗客は自分を入れてわずか3人。 越境の情緒を味わう間もなく、あっと言う間にメコン川を越えてしまった。 ラオス入国もいたって簡単で、日本人はビザ免除になったので、窓口にパスポートと入国カードを出すだけ。 これまた、ポンとスタンプが押されて入国完了。 やはりその先にヒマそうなおやじがいて、テーブルから手招きをするので行ってみると、 「20バーツ出せ」 と言う。 「いきなり、なんだ?」 と戸惑っていると、 「時間外手数料だ」 と、ラオス政府発行の領収証を差し出した。 朝と夜、そして土曜、日曜は手数料がかかるのだそうだ。 入国を終え、イミグレーションの先の広場に何人かの若者が地面にウンコ座りしていた。 ツバをペッペッとはいてはいないので、ヤンキーではなさそうだ。 「トゥクトゥクか?」 と尋ねると、 「そうだ」 と大きく頷く。 「ヴィエンチャンまで乗せてくれ」 と言うと、やる気がなさそうに、 「OK」 と一人の若者が重い腰を上げた。 トゥクトゥクの荷台から広々としたラオスの景色が流れていく。 無駄なほどに広くて立派な道路に車はほとんど走っていなく、その代わり、これまたやる気のなさそうな人々がブラブラと歩いていた。 「ゆるい… ゆる過ぎるぞ、ラオス…」 橋を越えてきたとたん、妙にゆるい≠フだ。 具体的に何がゆるい≠フかと訊かれれば、ミネラルウォーターのキャップがゆるいくらいで、あとはスパゲッティの茹で加減がゆるく、これはもううどん≠ノ近い食感であり、ラオスにはアルデンテ≠チて言葉がないのか! と怒りたくもなるが、その前にラオスに行ってまでスパゲッティを食うな! と言われてしまいそうなのでそこまでで抑えておくが、ゆるい≠ニ感じるのは、ラオスの雰囲気であり、人であり、空気なのだ。 何度も訪れているタイでさえも、ある程度の緊張感というものが心の隅にあるのだが、ラオスに入った途端、それが一気に開放された。 今回の旅では、ラオス人の他人との垣根の低さ、やさしさ、思いやりなどを存分に感じたが、その感じ始めが入国してわずか数分後であったことには驚きだ。 ちなみに、ゆるい≠フは交通ルールも同様で、トゥクトゥクは中央分離帯のある大通りを時々逆走した。 対向車がもちろんあるが、誰もクラクションを鳴らすようなことはせず、当たり前のように道を譲っていた。 空間の無いバス ノーンカーイのホテルをチェックアウトして1時間後、ヴィエンチャンの中心にあるタラートサオ・バスターミナルに着いた。 このバスターミナルは8年前と何ら変わっていなかった。 今回は日程の都合上、ヴィエンチャンには滞在せず、このままバンビエンの町まで向かうことにする。 バンビエン行きは2時間後の9時30分に出発するそうだが、すでにバスは扉を開けて待っており、たくさんの客が乗っていた。 バスに乗り込もうとしたとき、物売りの少女から声をかけられた。 彼女はフランスパンにレタスやきゅうり、トマトなどを挟んだサンドイッチを売っていた。 8年前もこのターミナルでこのサンドイッチを買い、とても美味かった思い出がある。 「1個くれ」 「5千キップ」 「あっ…両替してなかった… バーツでいい?」 とタイの紙幣であるバーツを差し出すと、「ノー」 と彼女は大きく首を横に振った。 「じゃあ、アメリカ・ドルは?」 と1ドル札を見せたが、これも 「ノー」 だった。 彼女はパンを売りたいがために、近くにいた人たちに両替ができないかと訊いてくれたが、誰も両替のできる人はいなかった。 さらに、バスのチケットもラオスの通貨であるキップでしか買えないそうだ。 「そっか、キップじゃなきゃ切符は買えないのね〜」 と、職場だったら大爆笑のシャレを言っても笑ってくれる人はなく、皆が口々に 「チェンジ、マネー」 と言いながら、向かいにある市場を指差した。 市場には銀行の両替所があるので、そこで両替して来いと言うのだ。 市場の中央部に両替所があった。 しかし、まだ開店前で銀行員はおらず、 <営業は8時からだよ> (意訳) と手書きの紙が貼られてあった。 しばらく窓口の前で待っていると、バイクに乗ったおばちゃんがやって来た。 おばちゃんも窓口の前で待ち始めたので、 「おばちゃんも両替?」 と声を掛けると、日本語が通じたのか、 「うん」 と頷きながら笑った。 おばちゃんは市場の片隅から木の椅子を2つ持ってきて、「座って待ちましょう」 と私にその一つを勧めた。 二人で待つこと20分。 手提げ金庫を持った銀行職員がやってきた。 両替所の鍵が外されると、一緒に待っていたおばちゃんはその中に入り、制服に着替えてカウンターに座った。 「あれ? おばちゃんはここの行員さんだったのね〜」 やはり日本語は通じていなかったようだ。 両替も無事に済み、サンドイッチを買い込んでバスに乗り込む。 車内はすでに満席で、通路にはニワトリやレンガ、エンジン、芋、訳の分からんプラスチック… などが積み込まれて、足の踏み場も無いほどだ。 私がどこかに座る場所がないかと探していると、後ろの方の乗客たちが手招きをして呼んでいる。 二人掛け席に3人で座り、私のために座席を空けてくれたのだ。 その後もどんどんと乗り込んでくる客たちに、みんなが当たり前のようにスペースを作り、一人でも多くの人が乗れるように助け合っていた。 荷物も次々に乗せられる。 バスの屋根に乗せきれない荷物は車内に持ち込まれる。 「もうこれ以上乗れないし、積めないぞ」 ってほどに車内がいっぱいになったところへ、自転車が持ち込まれた。 「これはムリだろ…」 と思って見ていると、乗客たちはその泥だらけになった自転車をひょいっと頭上に持ち上げた。 そこへすかさず別の乗客がロープを取り出し、見事に天井にくくり付けてしまった。 これは素晴らしい。 座席も屋根も通路も天井も、空きスペースの無くなったバスは、定刻よりも1時間も早くヴィエンチャンのバスターミナルを後にした。 バスは快調にバンビエンに向けて走行したが、気になるのは、天井にくくり付けられたあの泥だらけの自転車だ。 バスは左右に大きく揺れながら走るので、真下に座っている人はいつ自転車が落ちてくるかも知れない恐怖と戦っているのではないか… などとは、余計な心配であった。 自転車の真下に座るラオス人はそんな不安をよそに、折り重なるようにして眠っていた。 自転車は途中の村で降ろされようとしていた。 再び乗客たちが手を延ばして自転車を支え、その間に手際良くロープが解かれた。 ところが、ロープが外された途端に自転車のバランスが崩れ、「ゴン! ゴン!」 という幾つかの鈍い音を立てながら、乗客たちの頭に落ちた。 一瞬、車内が静まり返る… はずなのだが、何故か爆笑の渦… 我々は他人事だからいいが、そこは笑うところではないんじゃないのか? 頭に自転車の落ちた人はどうしているかと見ると、涙目になりながら頭を押さえ、周囲の乗客たち以上に大笑いをしていた。 ラオス人は不思議だ… 不思議な力のある町 身動きのできない車内に3時間半。 回りの人が 「バンビエン」 と教えてくれたので、人と荷物をかき分けてバスを降りる。 降りた所はだだっ広く細長い空き地だった。 「なんじゃ? まるで滑走路のようだな…」 そう思っていたが、後で調べたら、確かに1970年代にラオスが内戦をしていた頃、ここはアメリカ軍の滑走路だったそうだ。 カマボコ形格納庫を再利用した建物や、橋の欄干に爆弾を使うなど、とてものどかなこの町のいたる所に内戦当時の遺物が残されていた。 バンビエンでの宿は、インターネットで調べておいたゲストハウスに向かうことにした。 町の北外れ、と言ってもとても小さな町なので、中心部から歩いてもすぐの場所にそのゲストハウスはあった。 2階建て8室の小さなゲストハウスで、前庭に出された小さな木の机に陽気な宿のおやじが座っていた。 ここが一応フロント≠フようだ。 部屋を見せてもらう。 建物の外で靴を脱ぐ日本式で、案内された部屋は2階の角部屋だった。 木のぬくもりがたっぷりの室内は掃除が行き届いており、セミダブルサイズのベッドに大型のテレビがあった。 宿のおやじが窓のカーテンを開けた。 「おっ! お〜!」 なんと、その窓には、中国の桂林を思わせるような水墨画の岩山が一面に広がった。 「まさに桂林そのものや!」 中国・桂林には行ったことがないので、こんな景色なのかどうかはよく分からないが、思わすそんな言葉が漏れてしまう。 バンビエンは北に険しい岩山がそびえ、ラオスでも特異の風景になっている。 特に観光する場所もない小さな町なのだが、この風景を求めて訪れる旅人が多い。 窓の外は部屋ごとのテラスになっていて、椅子とテーブルが用意されていた。 この部屋に即決したことは言うまでもない。 もともとバンビエンには1泊の予定でいた。 ところが、バンビエンの風景は魔物だった。 朝、霞の帯がかかった美しい岩山の姿を見て目覚め、昼は子どもたちが川遊びをする元気な声に微笑み、夕方は女性たちが川で洗濯をする光景に郷愁を覚え、やがて真っ赤に空を染めた夕陽に心を落ち着かす。 こんな風景に 「もう一日、もう一日」 とズルズルと4泊もしてしまった。 軽い沈没≠ニいうやつだ。 幸いにも自分の旅行日程には限界があるので4泊で済んだが、もっと時間があったのなら、いつまでもこの町に滞在してしまったことであろう。 特に何が面白いという町ではないが、バンビエンには人を惹きつける不思議な力があった。 バンビエンはナムソン川のほとりにある町で、1本のメインストリートには欧米人の好みそうなレストランやバー、マッサージ、旅行社が集中していたが、それもほんの200メートルほどの距離しかなかった。 メインストリートをちょっとでも外れると、ニワトリがのんびりと道路を歩く、とても静かなラオスの田舎町の風景となる。 町を一周するのに、30分もかからないくらいの大きさだ。 こんな小さな町での過ごし方はざっとこんな感じだ。 朝−− ゲストハウスのテラスから岩山をいつまでも眺める。 目の前にはナムソン川とその支流の流れがあり、音といえば鳥の鳴き声くらいしかない静けさだ。 午前中 −− 涼しいうちに町の散歩。 寺で小坊主たちと遊んだり、小学校に行って子どもたちの写真を撮ったり、さらに少し足を延ばして町外れの村を訪ねたり… 午後 −− 太陽が頭上に上がってくると流石に暑いので、昼食後はゲストハウスに戻り、シャワーを浴びてビール片手にテラスで読書。または昼寝。 夕方 −− 太陽が傾きかけたら外出。 ナムソン川を眺めながら、バーのハンモックに揺られてビールを飲む。 何もしない贅沢がここにあり… |
(第二章 終) ≪前ページへ [目次へ戻る] 次ページへ≫ |