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回廊の女神たち (第六章・現在進行形の負) |
水上集落 「まずは、プライサニーへ行って」 今日のスタートは郵便局からだ。 暑中見舞いを日本に送ってから (1通・2200リエル = 約70円)、国際電話をかける。 「もしもし、日本は暑いよ〜」 「ちゃんと、火の元と戸締りをしっかり頼むぞ」 どこにでもある平凡な夫婦の会話を交わす。 しかし、これだけでも妻の声を聞けたので、元気が蘇ってきた。 さあ、今日は遺跡以外の観光に出掛ける。 「トンレサップ、ボート」 トンレサップ湖を遊覧したいことを身振り手振りでポウさんに伝えると、忠実な仕事人は大きく頷いた後、町の中心にあるガソリンスタンドへ向かった。 このガソリンスタンドはバイクタクシーの溜まり場になっている所で、ポウさんがその中の一人の男に声を掛けた。 「ヒー、ボート、オーナー」 そう紹介すると、ポウさんは湖に向かって再びバイクを走らせた。 声を掛けられた男はすぐにバイクで追いかけて来て、 「私がクルージングに連れて行きますよ」 と併走しながら話し掛けてきた。 走りながら値段交渉をおこない、10ドル (約1,200円) で交渉が成立した。 一昨日にプノンペンからの船を降りた岸辺までバイクを走らせ、そこに停泊していた一隻の舟に乗り込む。 舟には乗客が10人程乗れ、おしゃれな籐の椅子にはピンクのクッションと救命胴衣が備え付けられていた。 船頭はカンボジア人のストゥーブン君 (19歳) 。 チャーター舟なので他に乗客はいない。 ポウさんとオーナーの男に見送られ、舟はトンレサップ湖へ漕ぎ出て行った。 「ところで、この水路で銃撃されることはない?」 プノンペンからやって来た時に、政府軍に護衛されながら上って来た水路を観光するのだから、それはそれはとても不安である。 だが彼は、そんな心配を他所に平然と言った。 「心配ない。私の舟は撃たれない」 「ホント?」 「なぜなら、ここの住民はみんな友達だからだ」 ずいぶんと大きなことを言う兄ちゃんだ。 しかし、その堂々とした態度には頼もしさを感じた。 「じゃあ、よろしく頼むわ。写真を撮っても大丈夫?」 「ノープロブレム」 この一言がアジア人特有の 「ノープロブレム」 でないことを心の奥底から願いつつ、トンレサップの流れに身を委ねるのであった。 すぐに水上集落の中へと舟は入って行った。 一昨日はピンと張り詰めた空気の中の航行だったが、今日は違っていた。 気のせいか敵意の視線はまったく感じず、彼らはこちらを気にすることも無く普通に生活をしていた。 洗濯をしたり、水浴びをしたり、小舟で物資を運んだりと、そこには彼らの日常が展開されていたのだ。 レンズを向けてもお構い無しだ。 水上住居、水上雑貨屋、水上ガソリンスタンド、水上学校・・・ すべてに 『水上』 の文字が付く。 住民は器用に小舟を操り、陸上を歩いて行くかのように移動をおこなっていた。 年端もいかない子供が一人で舟を操っていることもあり、彼らにとって舟は特別な乗り物ではなく、履物≠ノ近い存在であることを知る。 前方より家が流れて来た。 「なんじゃ、ありゃ?」 指差しながら、後ろで舵をとるストゥーブン君を見る。 「ムーヴ」 (引越し) 彼の答えに納得した。 水上家屋の引越しは舟で牽引すれば良いだけなので、簡単に移動ができるのだ。 雨季の水位に合わせ漁場も変化するのだから、必然と住む場所も移動させなくてはならない。 そのたびに家財道具だけを移していたのでは、家を何軒も持たなくてはならず、非合理的だ。 ここで見るすべてのものが、驚きと興奮の連続だった。 人間は逞しい。地面が無くてもこのように生活をしていくことが出来るのだから。 波間に漂いながら… やがて水路から湖に出た。 ストゥーブン君は一気にエンジンを全開にし、波間を飛ぶように舟を走らせた。 空には雨雲が低く垂れ込め、湿気を帯びた強い風が吹いていたが、それでもこの広さは気持ちが良い。 かなりの沖合に出てからエンジンを停止させた。 二人で舟の舳先に移動し、そこにゴロンと横になる。 今こうしてカンボジアの湖の上を漂うことが、自分にとっての最高に贅沢な時間であった。 「あっちの方がプノンペンだ」 とか 「向こうの森には動物がたくさんいる」 などと、ストゥーブン君は一生懸命にガイドをしてくれたが、そんなことはどうでも良かった。 「ストゥーブンの夢は?」 「自分の舟を持って、観光業を営みたい。あちゅし (篤) は?」 「ユメか… そうだな、世界中を放浪したい。リュック背負って…」 極めて現実的だがしっかりした夢を持つ彼と、尋ねられてから考えるほどの夢しか持ち合わせていない自分の違いを、少々恥ずかしくなりながら考えていた。 日本は豊かだ。 今は経済不況だと騒いでいるが、流石に餓死することはないだろう。 そんな豊かな日本人が失ったものは夢≠セ。 裕福の代償として支払った結果、とてつもなく大きなものを失っていったのだ。 舟は笹の葉のように揺れていた。 目の前には水平線が広がり、聞こえてくる音はタップンタップンと言う波の音だけだった。 どのくらいの時間が経ったのだろうか。散々波間を漂った後、水路の入口にあるナマズの養魚場を訪れることにした。 養魚場と言っても水上家屋なのでそれは狭く、数メートル四方の囲いにナマズが大量に飼育されているだけだ。 他にはお土産を売っているだけで、どうってことは無い。 お土産を売っている広間には、2メートル以上はある大蛇がトグロを巻いていた。 「裏の森にはウジャウジャいるよ」 と言いながら、ストゥーブン君はその大蛇をむんずと掴むと、それを自分の首に巻いて喜んでいた。 「あちゅしも巻くか?」 とんでも無いことに、彼が大蛇を差し出した。 「ばっ、ばか! 寄るな!」 逃げ回る都会育ちと、それを大いに笑うジャングル育ちであった。 この店の小さな子供たちも大蛇を相手に遊んでいた。 (流石にカンボジア人は違う・・・) 舟を降り、プノン・クロムの山頂から改めてトンレサップ湖を眺める。 この広大な湿地帯が2ヶ月後には湖底に沈むなどとは、とても想像が出来ない。 いま自分が立っている山も、その頃には島へと変化してしまうのだ。 地雷博物館 「ポウさん、ミーンが見たい。」 日程の都合で明日にカンボジアを出国する予定だった。 カンボジアで見ておかなくてはならないものの2つ目が 『ミーン』 だ。 ミーンは英語でマイン (mine) ―― 『地雷』 のことだ。 このカンボジアにおいて、ポル・ポトが過去の負ならば、地雷は現在進行形の負だ。 ベトナム軍の進攻により悪魔のポル・ポト支配は終わりを見せたが、ポル・ポト派の残党と反ベトナム勢力によって内戦の嵐が吹き荒れる。 その時に埋められた地雷が今でも回収しきれず、大量にカンボジア全土に残っているのだ。 プノンペンにもたくさん居たが、このシェムリアップの町ではもっと多くの犠牲者に出会った。 特に最後まで内戦の激しかったこの周辺では、地雷撤去が相当に遅れている。 犠牲者の多くは子供たちだ。 彼らは遊んだり農業の手伝いをしたりしている時、不幸にも地雷に触れて両足を失った。 大人たちの勝手な争いの犠牲になるのは、いつも罪の無い子供たちだ。 町中でも遺跡観光中でも、子供を中心に両足を失った物乞いたちがすぐにやって来た。 健常者であれば 「働け!」 とばかりに追い払うのであるが、彼らにはそれが出来なかった。 僅かばかりのお金だったが望むままに分け与えていた。富める者が貧しい者 ―― この場合は社会から明るい人生を奪われた人々 ―― に施しをおこなうことが、当然であると思っていたからだ。 だが、その考えは途中から大きな疑問を抱くようになった。 (彼らに本当に必要なのは、目先の端金ではない。) 確かに、その金でその日の飢えをしのぐ事は出来る。 だが、根本的な問題解決には何ら役立っていないのだ。 我々が出来ることは地雷の恐怖と現実を認識し、この世から悪魔の兵器が完全に姿を消すよう、何らかの努力をすることだ。 また、端金を与えていては、彼らは一生自立することが出来なくなってしまう。 障害を持っている事が商売になると勘違いをしてしまうのだ。 現に 「金を貰って当然だ」 とばかりの態度をとる者もいた。 彼らはこれが商売≠セと思い込んでしまっているのだ。 地雷を踏んだ者のすべてが物乞いをしているわけでは無い。 している者はほんの一握りの人間なのだ。 多くは生業を営み、他人の金銭的な援助を受けていないのだ。 政府による自立支援施設も方々にあり、そこでも多くの犠牲者が汗水流して働いている。 半端なホスピタリティは彼らを駄目にする。 そう結論付けた時から心を鬼にして、彼らの要求を却下し始めた。 辛く悲しい気持ちだったが、彼らの逞しさだけが唯一の救いだった。 松葉杖だけで、遺跡の急階段をいとも簡単に上り下りしてしまうのだから。 アキレス腱を切り、階段の一段が上れないと大騒ぎをしたわが妻とは大違いである。 「わが家もバリアフリーにするべきね」 と、もっともらしいことを言っていたが、カンボジアにはバリアフリーなどという洒落た言葉は無い。 同じアジア人で、こうも違うものなのか・・・ いずれにしても、この国で地雷の恐怖を知らずして日本に帰るわけにはいかない。 そこで、ポウさんに頼んでみたのである。 ポウさんは少し考えた後、 「サラモンティー・ミーン」 (地雷博物館) と言ってバイクを走らせた。 シェムリアップの町を通り過ぎ、アンコール遺跡方面へ向かう。 途中の小道を右に折れると、そこからは荒地の中の悪路が続く。 振り落とされないよう必死でポウさんにしがみ付く。 民家がポツンポツンとあるその一帯を指差したポウさんは、 「ミーン、フィールド」 (地雷原) と言い放った。 ここは紛れも無く地雷原の中にある村なのだ。 途中には地雷撤去ボランティアの事務所もあった。 僅か2メートルばかりの幅しかない悪路。 運転を誤って荒地に突入したら最後、成田の地は自分の足では踏めない。 おのずとポウさんに回した腕に力が入る。 幸いにもわが優秀ドライバーは道を外すことなく、一軒の家に到着した。 「サラモンティー?」 (博物館?) と訊くと頷く。 しかし、どう見ても普通の小屋だ。 疑心暗鬼で中へ入ると、英語と日本語の小さな看板を発見。 『ここの地雷はすべて安全です』 この小屋は、かつて反政府軍の兵士だったアキー・ラーさんの家で、彼は地雷を設置していた人間だった。 内戦が終結して農業に戻った彼は、自分のおこなってきたことへの自責の念にとらわれ、カンボジア人としては唯一の地雷撤去ボランティアをおこなっている人である。 小さな小屋に入ると、簡単な説明文とともに 『対戦車地雷』 や 『対人地雷』、『バズーカ砲』 のようなものまで、無造作に山積みにされていた。 彼が撤去した4千個ほどの地雷が、安全処理を施されてここに眠っているのだ。 フリスビーほどの大きさの物からタバコ1本の大きさまで、その種類の多いことには驚いた。 そのほとんどが中国やアメリカ、ロシア製で、1個200円ほどだそうだ。 コーヒー1杯分の値段の武器で、人間の一生が台無しになってしまうのだから、それは恐ろしいことである。 ちなみに撤去する道具 (探知機) は日本製で、撤去費用は1個あたり数万円もかかるそうだ。 また、地雷原だけが危険なのかと思っていたが、水田も要注意なのだそうだ。 雨季になると洪水が頻繁に発生し、その流れにのって小さな対人地雷が水田に流されてくるのだ。 だから、赤地にドクロの地雷原マークが無いからと言って、安全とは言い切れないのである。 あとどれくらいの地雷がこの地球上に残っているのか分からないが、一日も早く完全撤去されることを切に願う。 そして、明日はこの恐怖の原っぱを越えてタイへ向かう。 |
(第六章 終) ≪前ページへ [目次へ戻る] 次ページへ≫ |