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回廊の女神たち (第三章・悪魔の所業) |
王宮にて… ホテルの一階には大きな中華レストランがあり、朝から大勢の中国人が食事を楽しんでいた。 都市部の中国人は家で朝食を食べる習慣が無く、外食をするのが一般的だ。 よって、ほとんど宿泊客のいないこのホテルでも、この時ばかりは活気がある。 ウエートレスは英語が話せないので、自分のオーダー取りはこの店のオーナーの仕事となった。 卵料理は目玉焼きの失敗作と言った感じだったが、フランスパンがとても美味かった。 ベトナム同様にフランスの植民地であったことを実感させられる。 今日は一日中、市内観光をする予定だ。 とは言っても、観光するような場所はほとんど無いのがプノンペンである。 警備員のおじさんにバイクタクシーの相場を聞いてから出発。 先ず向かったのは、シアヌーク殿下の住んでいる王宮だ。 日本で言えば皇居にあたり、王様の執務によっては入場制限されるそうだ。 ホテルから2キロ弱のトンレサップ川近くにそれはあった。 王様が住んでいる割には警備が甘く、車両進入禁止の中を堂々とバイクタクシーは入り込んで行った。 入場料はカメラ持ち込み料を含めて5ドル (約600円) で、決して安くない金額だ。 そのくせ中はどうってことなく、 「なるほどね・・・」 と、極めて抽象的な感想を呟くことぐらいしかなかった。 ここには金持ちそうな小学生の集団も来ていたが、どの子も愛想が無かった。 カンボジアでは全体的にそうである。 外国人に慣れているのか、それともそんな余裕がないのか、こちらから話し掛けなければ相手から喋ってくることはまず無い。 このプノンペンでは店でもそうだ。 「ヤル気あるの?」 と訊きたくなるくらい、ベトナムとは正反対なのである。 王宮を出るとスコール。 川沿いに建っている東屋でしばしの雨宿りをする。 坊主、警官、物売り… と、ここでは多くの市民が雨の止むのを待っていた。 粛 清 雨が小降りになったので、川沿いにたむろしていたバイクタクシーの一台をつかまえる。 運転手の名はロッタナー。 20歳の彼は、人が良さそうで英語が話せた。 彼のバイクにまたがり、相当に重く暗い気分になってしまうが、カンボジアでは避けて通れない場所を訪問することにした。 その場所は 『トゥール・スレン博物館』 だ。 1975年から1979年までの約4年間、カンボジアでは恐怖政治の時代を迎えた。 ポル・ポトによる政権支配は、全土で無謀な社会主義改革を強行した。 都市部の無人化 (農村への強制移住)、通貨の廃止、市場の閉鎖、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、集団生活化などが主な政策であった。 そして、これらに反対する人々は次々と捕らえられ、激しい拷問を受けた後に惨殺されていった。 それは、反政府を唱える本人のみならず、その家族や一族までもが残虐な方法で命を奪われていったのだ。 農民、技術者、僧侶、学生などあらゆる職業の人たちから、乳飲み子、老人などの年齢を問わず、実に国民の3人に1人が虐殺されてしまったのだ。 その 『粛清』 の舞台のひとつとなったのが、このトゥール・スレン刑務所 (通称・S21 = Security Office 21) で、ここだけで2万人 (判明した人数) もの罪無き人々が投獄され、そして処刑されていった。 この忌まわしい過去を後世に伝えるため、現在では博物館として広く一般に公開しているのだ。 元々高校の校舎であった建物は、プノンペン市内の住宅地の中にあった。 外壁の幾重にも張り巡らされた有刺鉄線が無ければ、どこにでもある普通の住宅地の光景だ。 正門を入ると受付があり、係官が来館者の国籍を集計していた。 ここで、施設維持費の2ドル (約240円) を支払い中へ。 正面には芝生の校庭が広がり、それを囲むように3階建ての校舎が4棟並んでいる。 順路に従い、先ずはA棟へ足を踏み入れる。 建物の一歩中へ入ると、重い… 空気が重い… 日本のテレビ局ならすぐに霊媒師を連れて取材に訪れるであろう、ただならぬ雰囲気だ。 幾つかのガラ〜ンとしたそれぞれの部屋には、真ん中に錆びた鉄のベッドが置いてあり、その近くには同じように錆びた鎖や足枷が転がるように放置されていた。 ここは尋問室だった建物で、地獄絵図が毎日繰り広げられていた場所である。 壁にはどう見ても血痕と思われるシミが無数に残り、惨劇の凄さを物語っていた。 この博物館には立ち入ってはいけない場所は無く、どこでも自由に出入りすることができた。 禁止されていることは唯一、パネルの写真にイタズラ書きをすることだけである。 よって、これらの展示物にも自由に触れることができるのだが、流石にそれは畏れ多く、近寄ることすらはばかれた。 この重く圧倒される空気に一人では耐え難く、いつしかフランス人観光客の男性と一緒に見学するようになった。 彼とは昨日、町中を歩いているときにすれ違い、「ハ〜イ」 と一言あいさつを交わしていたのだ。 もちろん、一緒に見学することを示し合わせた訳ではないが、自分も彼も、ひとりでこの場所を凝視することに耐えられなくなっていたのだ。 他に見学者は無く、二人でつかず離れず隣のB棟へ移動をする。 続くB棟には、ここに収容された人たちのおびただしい数の顔写真が、部屋一面に張られていた。 死を覚悟した人々の目は、憎しみも悲哀も感じられず、ただ空虚な眼差しでレンズを見つめるものばかりであった。 自分もフランス人も言葉が出ない。 し〜んと静まり返った館内を、ゆっくりと歩んで行く。 女性のすすり泣きが館内に響いた。 先客のスペイン人女性が感極まり、パネルの前に立ち尽くして泣いていた。 それに触発された訳ではないが、自分もフランス人も涙が止めど無く溢れてきた。 3人で泣きながら、一枚一枚の写真に冥福を祈る。 それが今の我々に出来る最高で唯一のことであった。 C棟は、人ひとりがやっと横になれる程度に仕切られた狭い独居房跡、D棟は残酷な拷問の様子を描いたパネル展示となっていた。 展示物の最後は、数多くの頭ガイコツで作られたカンボジアの地図だ。 中央を流れるトンレサップ川は、血の如く真っ赤な色に塗られていた。 当時のこの国を象徴する地図だ。 つい最近まで日常の如く処刑がおこなわれていた校庭のベンチに座る。 数本の大きな椰子の木が実をたわわに付けて風に揺らいでいた。 (この木はすべてを見ていたんだろうな…) 高校だった時代から残された鉄棒が、さらに感傷的にさせた。 「どうだった?」 外で待っていたロッタナーが開口一番こう訊いた。 「・・・興味深かった・・・」 日本語であっても一言では表現できない。 広島の原爆資料館に初めて訪れた時よりもショッキングだった。 自分が高校生で青春を楽しんでいたときに、カンボジアではこんなことが起こっていたのだ。 「OK! 次はキリング・フィールドに行くか? 5ドルでいいよ」 キリング・フィールドとは郊外にある処刑場の跡で、大量の人骨が発見された場所である。 今はここに慰霊碑が建立されている。 ロッタナーには外国人の感傷などどうでも良いことだった。 どれだけ稼ぐかと言った今の生活の方が重要なのだ。 「もう、いいよ。戻って…」 ロッタナーは黙ってエンジンをかけた。 きっと、多くの観光客がここを訪れ、自分と同じ気持ちになることを良く知っているのだろう。 平和であることの喜び 走るバイクの上で話した。 「ロッタナー、君の両親は無事で良かったな」 「何? 聞こえないよ」 「…平和が一番だね」 「ああ」 カンボジアでは若者の姿が目立つ。 それはそうである。 なんせ、働き盛りの人々は悉く惨殺されていったのだから。 そしてこのロッタナーたちの世代が、これからのカンボジアの平和を守っていくのだ。 プノンペンの風を一身に受け、平和であることの大切さを噛み締めるのであった。 また雨が降り出してきたので出発地点にもどり、近所の食堂にて昼食をとる。 その間、ロッタナーはアメリカ娘をバイクに乗せ、もうひと稼ぎに出掛けた。 若い娘を後ろに乗せた彼は、嬉しそうにこちらにガッツポーズを見せると、屈託の無い満面の笑みで遠くへ消えて行った。 雨は一段と激しさを増し、店から見る大通りは水のカーテンをひいたようだ。 そんな光景をぼんやりと眺めながら、薄暗い中でカンボジアの国産ビールである 『アンコールビール』 をゆっくりと飲む。 この店には自分以外の客はいない。 品の良さそうな華僑の女主人は、自分への料理を運び終えると他にやることが無く、斜め前のテーブルに腰を落ち着けた。 そして、自分と同じように外を見ながら、 「雨はイヤね」 と話し掛けてきた。 外の雨音と店内の静けさが対象的だ。 時がゆっくりと進んでいくような妙な錯覚に陥った。 2時間ほど雨宿りをしたが一向に止む気配はなく、仕方なく、ズブ濡れになりながらバイクでホテルまで戻る。 あまりの激しい濡れ方に、ロッタナーも自分もヤケクソで腹の底から笑う。 ホテル周辺は緊迫したムードに包まれていた。 多くの警察車両や軍隊、救急車が忙しそうに走り回り、なんとなく周りが落ち着かない様子だ。 検問もおこなわれている。 「何かあったの?」 警備員のおじさんに尋ねる。 「この先のホテルで爆弾が破裂した。」 おじさんが言うには、わずか200メートルほど先にある別のホテルで爆破事件があり、死傷者が発生したとのことだ。 この時はそれ以上の状況が分からなかったが、帰国してからの新聞によると、大麻やヘロインを扱う中国系マフィアの経営するホテルが、対立する別の組織によって爆破されたとのこと。 しかも2つのホテルが同時爆破され、3人が亡くなり十数人が重軽傷を負ったらしい。 |
(第三章 終) ≪前ページへ [目次へ戻る] 次ページへ≫ |