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イラワジの虹を越えて  (第七章・天空の城)

馬車に揺られて遺跡巡り


 この町の主な生活の足は馬車である。
 市場からはたくさんの荷物とおばちゃんたちを乗せた馬車が、重そうな音を立てて通り過ぎて行く。
 少しでも荷台に余裕があると乗らないかと声を掛けてくる。
 基本的には相乗りのようだ。
 観光の足もこの馬車が中心だ。町を行く馬車に交渉をして、1日単位でチャーターをしてしまうのである。
 車でも遺跡巡りはできるが情緒が無い。

 ホテルには毎朝、馬車がやって来ては観光の誘いをしていた。
 1日チャーターしても、たったの1500チャット (約450円 )だ。
 英語での解説が付く馬車をチャーターして、バガンの遺跡見物に出掛けた。

 バガンは広大な原野に、大小さまざまなパゴダ (寺院) の遺跡が点在する所だ。
 東南アジアで一番面積が広く、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールとともに世界三大仏教遺跡のひとつと称されている。 (この2つは有名だが、バガンはあまりに知られなさ過ぎだ…)
 ところが、ミャンマー政府が申請をおこなわないので、世界文化遺産に指定されていない。
 11世紀から13世紀にかけて建てられたパゴダは、一説によれば数十万基に達したと言われているが、戦争や混乱により現在では2千基〜3千基が残っているそうだ。
 国の考古学保護区に指定されている割には、その数が随分といい加減である。
 「なんせ、数えた人がいないもので・・・」
 馬車のおやじもそう言っていた。
 小さいものは電話ボックスくらいの大きさから、大きいものは高さが60メートルを越えるものまで様々だ。
 この遺跡群の中にニァゥンウーのほか5つの村が存在するのだ。
 観光客が巡る主なパゴダは40基程度。
 しかし、これをすべて観るには丸3日は要する。
 最低限観ておきたいパゴダを、おやじのお任せで巡ることにした。

 朝7時半、マドンナ (♀・4歳) の毛並みを揃えてから出発。

 ほんの少し町から外れるとそこには見渡す限りの大平原が広がり、レンガ造りの遺跡が点々と姿を見せた。
 遺跡の内部はどこも似たような造りをしており、正面に巨大な仏陀が鎮座し、回廊には小さな仏陀がたくさん安置されていた。
 いくつかの遺跡ではてっぺんまで登れるものもあり、急斜面の階段を四つん這いになって行くと360度の大パノラマが開けるのであった。
 この景色はいつまで見ていても飽きない。
 遠くには山々が連なり、その手前には優雅に流れるエーヤワーディー川、そして、深い緑の木々に囲まれた原野には遺跡の尖がり屋根がヒョコヒョコと頭を出し、悠久の歴史を物語っていた。
 パゴダの頂上にゴロンと横になりこの雄大な眺めを堪能していると、バガン王朝の王様にでもなった気分である。
 しかし、パゴダに気持ち良く登れるのも朝の早い時間までである。
 太陽が頭上に昇ってくると、遺跡はその熱で歩けないほどの高温になるのだ。
 我々はこれらを遺跡≠ニ呼んでいるが、地元の人々にとっては現役の寺院である。
 それが証拠に、彼らは壊れかけた寺院はどんどんと新しいものに修復してしまっていた。
 彼らは遺跡としての価値よりも、心の拠り所としての寺院の価値を重んじているのだ。
 よって遺跡に入る時は、入口から裸足になって行かなくてはならない。
 太陽に焼かれたレンガに足を置こうものなら、「あちっ!あちっ!」 と跳ね回ってしまうことになる。

 有名なパゴダでは土産物を売る人々が入口に陣取り、我々に熱心な行商をおこなった。
 仏像や絵葉書、自分で描いた絵などである。
 小さな子供たちも親に負けないくらいの逞しい行商をおこなう。
 「買わないよ」
 と言ってもぞろぞろとくっ付いて来て、遺跡内部の案内を勝手に始めるのである。
 そして、「案内したんだから買ってよ」 とくるのである。
 そのたびに買っていてはいくら金があっても足りない。
 「いらん、いらん」
 口癖がついつい出てしまう。
 「オニイサン、ヤッスイヨ (安いよ) 」
 と決まり文句のように、どの物売りも言っていた。
 この変なイントネーションの日本語、誰が教えたんだ?



イグアナかぁ?


 この辺りは自然に囲まれているだけあって、何匹かの巨大なヤモリに遭遇した。
 アウンミンガラーホテルにも住み着いているヤモリだが、大きくてもせいぜい15センチくらいで白い体をしているのが普通だと思っていた。
 しかし、大自然で育ったヤモリはムチャクチャでかかった。
 体長は優に60センチを超えるほどで、茶色の体をしていた。
 最初にお目にかかった時は、
 (げっ! イグアナがいる・・・)
 と思ったほどだった。
 こちらと目が合っても決して動じることなく、逆に睨み返される始末だ。
 「あれは、イグアナか?」
 ぞろぞろとくっ付いて来ていた物売りの子供たちに尋ねた。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠… トッケイ、トッケイ」
 そこで初めて知ったのだ ―― こんなに巨大なトッケイ (ヤモリ) がこの世に存在することを。
 こいつを捕まえて、ヤモリを神様のように敬うタイに持っていったら、タイ人は泣いて喜ぶだろうな・・・

 学術的に重要な壁画が描かれている遺跡にはしっかりと鍵がかけられており、やたらと中に入れないようになっていた。
 しかし、観光客がそれらに近付いて行くと、どこからともなく門番のおじいさんがやって来て扉を開けてくれる。
 さらに暗い内部に一緒に入り、裸電球で壁画を照らしてくれるのだ。
 それがとても至れり尽せりで、客の目の方向にサッと灯りを向けてくれるのだ。
 右を向けば右に、左を向けば左に、上を向けば上へ、素晴らしいタイミングで光を届けてくれた。
 ついつい悪戯心が働いて、右左上下へ小刻みに首を動かしてみた。
 おじいさんは負けじと必死で電球を合わせた。
 フェイントをかけ、左を向くように見せかけて急に上を向いてみた。
 流石のおじいさんもこれにはついて来られなかった。
 思わず、二人して笑ってしまう。
 結局このようにおじいさんと遊んでいたので、壁画の学術的価値がどの程度なのかはさっぱり分からなかった。
 おじいさんへは少額だがドネーション (喜捨) を渡す。

 この日は夕方になって黒雲が立ちこめてきたため、遺跡の上からの夕陽鑑賞を諦めてホテルに帰った。



ココヤシ畑の猿おじさん


 バガンの南東50キロの所に、ミャンマーの土着信仰であるナッ神を祭った 『ポッパ山』 と言う聖地がある。
 ポッパ山には大ポッパと小ポッパがあり、大ポッパは稜線のなだらかな標高1500メートル級の山である。
 この大ポッパが今から25万年前に大噴火を起こし、その時に吹っ飛んだ頂上付近の部分が小ポッパ (と言われている・・・) で、この標高737メートルの岩山が信仰の対象となっている。
 岩山のてっぺんには寺院が建てられ、信仰深い人々が参拝に日々訪れているのである。

 オウンチョー一家のアレンジにより、この小ポッパ山に登ってみることにした。
 迎えに来たのはオウンチョーのお兄さんで、赤いラインの入ったサンウェーブの営業車でやって来た。
 流し台販売の営業マンの汗と涙が染み込んだ車は、1.5車線の一本道を時折やって来る対向車に正面衝突しそうになったり、道路に寝ている犬を轢きそうになったりしながら、熱帯地方の風景が続くポッパ山への一本道を快調に飛ばした。

 途中、軍隊の検問が2箇所ほどあったが、オウンチョー兄は 「ヨッ!」 と兵士に手を上げるだけで、減速もしないで通り過ぎてしまった。
 「今のは検問じゃないの?」
 と聞くと、
 「彼らは友達だから大丈夫」
 と、あっけらかんと言い放った。
 何が大丈夫なのかよく分からないが、軍隊も追いかけて来なかったので大丈夫なのだろう。

 やがて車窓の風景は、ニョッキリと背の高い椰子の木が生い茂るものへと変わって来た。
 「あれは椰子ですか?」
 「ミャンマーの主力産業であるココ椰子畑だよ。ちょっと寄って行くか?」
 と、椰子畑の中に点在する小屋の一軒に立ち寄った。

 車を降りたオウンチョー兄はそこで働いているおじさんとおばさんに声を掛け、小屋の中へ案内してくれた。
 藁葺きで出来た小さな小屋の中では、水牛が挽いた椰子の汁を煮詰めて砂糖作りをおこなっていた。
 珍しい光景に盛んにカメラのシャッターを押していたら、小屋のおじさんが 「付いて来い」 と言って裏の椰子畑へ出掛けた。
 おじさんは何も道具を付けず、まるで猿の様にスルスルと椰子の木のてっぺんまで登って行ってしまった。
 そしててっぺんで 「写真を撮れ」 と言わんばかりにポーズを決めた。
 「OH! グレート!」
 たいした写真にならないことは分かっていたが、そこまでしてくれるおじさんに悪いので2〜3枚シャッターを切る。
 満足気なおじさんはココ椰子の身をひとつ切り落とし、再び猿の様にスルスルと降りて来た。

 木陰のテーブルで切ったココ椰子のジュースを飲ませて貰う。程よい甘さでとても美味かった。
 さらに、おじさん特製のココ椰子酒もご馳走になる。
 小さな壷に入れられた酒はたくさんの白い泡が立っており、甘い匂いがした。
 コップに注いで貰うと蟻が数匹浮いていた。
 その蟻を指で取り除いてから飲む。
 気の抜けた生温いビールと言った感じで、不味くは無いが美味くも無かった。

 勝手に見学をさせて貰ったのに、土産として椰子の葉で編まれた籠に入った砂糖菓子を貰う。
 「タダで貰ちゃっていいの?」
 オウンチョー兄に訊いてみた。オウンチョー兄はミャンマー語でおじさんと話した後、
 「いいって言っているよ」
 と通訳してくれた。

 延々と続く椰子畑を抜けると高原の牧草地帯になった。
 丘の起伏に沿って描かれた一筋の白い道は、絵本の挿絵のような風景である。



アーウイー教の一行


 ホテルを出発して1時間ほどで、ポッパ山の麓に広がる門前町に到着した。
 老若男女の参拝客で賑わい、多数の露店が出ていた。
 宿坊のような施設も幾つかあり、そこではスピーカーから大音量でお経が流されていた。

 参拝客を蹴散らせながら凸凹道をしばらく進むと、突如として視界が開けた。
 そして小ポッパ山の信じ難き光景が眼前に現れた。
 天空にそびえる巨大な岩。
 半分ほどは緑に囲まれているが、そこから上は岩肌が剥き出しになっている。
 そしてその頂上には、白い大きな寺院がへばりつく様に乗っかっていた。
 それは近付こうとする者を拒むかの様な天空の要塞を呈していた。
 「すっ、すっ、すごい!」
 思わず絶叫だ。

 登山口が近付くにつれ参拝の人々が多くなった。
 車が思うように進まないほどだ。
 「今日はとても偉いお坊さんが来ているので、ミャンマー中から人々が集まっているんだよ」
 オウンチョー兄が説明をしてくれた。どの程度偉い坊さんなのかは知らないが、お祭りのような賑わいだ。

 天空の城への登り口で車を降りると、ちょうど、長い行列の一行と一緒になった。
 この行列が偉い坊さんの一行だ。
 大きな旗を持った人を先頭に、ミャンマー各地の寺院の写真を持った人、今にも死にそうなじじいの坊さん (この人がとても偉い坊さんらしい)、普通の坊さん、お姫様のような衣装を着た女性、そしてその後ろには茶色の民族衣装に身を包んだおばさんたちがゾロゾロと従っていた。
 おばさんたちは (何故か男性がいない) 手に手に色取り取りの旗を持ち、リーダーのような人が大声を上げると、
 「アーウイー!」
 と合の手を入れていた。
 メーデーの大行進のようだ。
 それは長い行列で、この人たちが狭い小ポッパ山への階段を登り始めたものだから、一般の参拝客は入口で足止めである。

 最後尾のおばさんが通り過ぎるまで30分以上もかかってしまった。
 行列も後ろの方へ行くほどおばさんたちもだらけていて、お喋りをしたり、お菓子を食べたりしながら、「アーウイー」 と、これまただらけた声で合の手を入れていた。

 小ポッパ山の山頂までは九十九折の急な石段が続いていた。
 途中数カ所に難所があり、ここでは壊れそうな梯子を伝って行かなくてはならなかった。
 空いていれば楽なのであろうが、アーウイー教の一行が通り過ぎた後で、一般の参拝客が一斉に登り始めたために非常に混み合っていた。

 山の中腹辺りまで登って来ると、参道には野生の猿が顔を見せて愛嬌を振りまいていた。
 日光の強暴猿とは違い、決して人様の物を取ったり、引っ掻いたりするようなことはない。

 あと一歩で頂上と言う地点で、頭上の寺院からアーウイー教の威勢の良い掛け声が聞こえて来た。
 「アーウイー、アーウイー」
 その声は山々に響き、一種異様な雰囲気に包まれていた。
 アーウイー教が下山してくるまで山頂は超満員状態のため、ここでもまた足止めである。
 参道から少し外れた眺めの良い通路で休憩した。
 垂直に切り立った岩の上からの眺めはまさに絶景だ。
 遥か眼下には、門前町の家々と蟻ん子のような人々の姿が。
 少し遠くに目をやると、深い緑の先には車でずっと走って来た高原地帯と椰子畑が見えた。
 流れる風は涼しいを通り越して少々肌寒いくらいである。
 下界のうんざりするような暑さをすっかり忘れさせてくれる。
 「アーウイー」
 の掛け声が少しずつ近付いて来た。
 自分の休憩しているこの道を使い、一行が下山を開始したようだ。
 大きな旗と写真を持った人が通り過ぎ、次に坊さんの一団だ。
 ところが、今にも死にそうなじじいの坊さんが、自分の目の前で足を止めて話し掛けて来た。
 「あんたはナニ人だ?」
 ミャンマー語で聞かれ、「はぁ?」 と言う顔をしていたら、すぐ後ろの若い坊さんが英語で通訳をしてくれたのだ。
 「日本人です」
 そう答えると、
 「…コンニチハ、コンニチハ」
 ミャンマーでは大変に徳の高い坊さんが、いきなり下手くそな日本語で挨拶をした。
 これにはビックリだ。そ
 して歯の無い口を開いてニカッと笑い、なんと握手を求めて来た。
 その手はシワシワで力は無いが、ガッシリと掴んだ両手には仏教の神秘を感じずにはいられなかった。
 凡人の自分でも仏に一歩近付いた感じだ。
 しかし、これからが大変だった。
 後ろに延々と続く人々が、一人ずつ握手を求めて来たのだ。
 「なんで? なんで? なんか勘違いしてない?」
 と戸惑いながらも、ニコニコして握手に応じるしか無かった。
 アイドルになったようである。
 やはり、偉い坊さんに触られた人は仏の絶大なるパワーが宿るのか? それとも単なる連鎖反応か?

 後半になってくると、だらけたおばちゃんたちが果物や菓子をくれた。
 「俺は仏じゃないんだからお供え物は要らんよ」
 と思いつつも喜んで頂戴する。

 そんなこんなで1時間近くの握手責めの後、やっとのことで山頂に辿り着くことが出来た。



アメージングストーン (不思議石)


 ここは下界の世界とは違う天空の城だ。
 このような場所にあるからこそ、その神秘性を持って土着信仰の中枢になることができたのだろう。
 山頂には所狭しと5つほどの小さな寺院が軒を連ね、各寺院の中には熱心にお経を唱える人々がギュウギュウ詰になっていた。
 寺の外では坊さんが籠に入ったご飯を人々に配っていた。
 これは参拝者全員に分けられるもので、外国人の自分にも施してくれた。
 衛生的な面で躊躇したが、ありがたくいただく。
 参拝に来ている人々は大人も子供も皆着飾っていた。
 この地に詣でることが、きっと彼らにとっては特別のことなのであろう。

 (登りの苦労は何だったんだ?)
 と思えるほどに、下りは楽で早かった。

 生活用品や仏像を売る露店で賑わっている門前町を散策する。
 『タナカ』 の木を売る店を覗いた。
 『タナカ』 とは、学名 「ムレオエキゾチカ」 と言う木なのだそうだが、それを聞いても何の木だか分からない・・・ ミャンマーの人はこの木を石板で擦り、その汁を頬や額に塗るのである。
 これはオシャレの他に日焼け止め≠ニ清涼の効果がありミャンマー人の100パーセント近くの人が男女を問わず塗っている。
 露店のおばちゃんが石板でタナカの木を擦っていた。
 興味深く見ていたら、
 「あんたにも塗ってあげるわよ」
 と、腕にその汁を塗ってくれた。
 肌に付けると真っ白に変色するその汁はスッーとして気持ちが良い。
 おばちゃんは
 「お土産にどうだい?」
 と言うが、割る前の薪みたいに大きな木を旅の間中持ち歩く訳には行かないので断った。

 不思議な石を売る親子がいた。
 ツカツカと寄って来て、手の平に乗った真ん丸い石を見せた。
 石はゴツゴツの溶岩で出来たもので、
 「アメーズィング 、アメーズィング」
 と盛んに言っていた。
 その石を振ると中に小さな石が閉じ込められており、カラカラと音がするのである。
 ちょうど鈴のような構造をした石だ。
 これは大ポッパ山が噴火した時に何らかの理由により出来たらしいのだが、専門的なことはよく分からない。
 たったの100チャット (約30円) だったので買う。

 食堂で待っていたオウンチョー兄と合流し、サンウェーブの車で帰路につく。



ニニとクドー


 ニァゥンウーの町はそれほど広くはない。
 西外れのホテルから東外れの市場までは3キロ弱で、南北は500メートルほどの長細い町だ。
 この町をぶらつくことが日課になっていたため、顔見知りもたくさんできた。
 毎日のように家々に飲料水を運ぶ水屋のお兄ちゃん、寺院の前で怪しげな宝石を売るインド人、ホテル前の屋台でフルーツを売る姉妹、そして肝っ玉母さんのいるオウンチョー一家。
 なかでも親しくなったのが、ホテルから歩いて5分ほどの場所にある、食堂の兄妹である。
 好奇心旺盛な兄のクドーは19歳、照れ屋の妹ニニは12歳。
 共に地元の学校に通いながら、店を手伝っている。
 この店のお父さんに誘われるまま、昼飯を食べに入ったのが最初の出会いだった。
 外に面したテーブルに腰を落ち着けると、妹のニニが英語のメニューを持ってきた。
 そして食事を待っていると、彼らが同じテーブルの正面に座ったのだ。
 最初はニコニコしているだけだったので、
 (なんじゃ? コイツら・・・)
 と思ったが、そのうちに持ってきたお菓子を勧めながら、
 「ニッポンから来たの?」
 と話し掛けてきた。
 「そうだ」
 と答えると、彼らは各自のノートを取り出してページを開いた。
 そこにはミャンマー文字で何かがビッシリと記入されており、その中からある一行を探し出してそれをゆっくりと読み上げた。
 「イラッシャイマセ。 ゴユックリドウゾ」
 それは、日本語での言い方が記されてあるノートだった。
 そんなことから彼らとは仲良くなり、色々な日本語を教えてあげるようになった。
 彼らは熱心にこちらの言ったことをノートに書き取り、何度も何度も繰り返して発音していた。
 二人ともあまり英語は好きではないが、日本語には関心を持って独学で勉強をしているそうだ。
 ニァゥンウーに滞在中はほとんど毎日、この店で昼食を取りながら彼らの先生をした。
 そのうちに授業料として一品多く出して貰うようになった。



配達されない20通の手紙


 毎朝7時半、若葉幼稚園の園児用バスがホテルの前を通過する。
 小さな黄色の車体には、ゾウさんやキリンさんのかわいらしい絵が描かれている。
 しかし、その車体にしがみ付きながら寿司詰状態で乗っているのは、日焼けした黒い (厳密には茶色い) ミャンマー人の大人達だ。
 この光景は異様だった。
 彼らはこのバスにどんな思いで乗っているのだろうか。
 ところで、車内はどうなっているのだろう。
 流石のミャンマー人でも園児用のシート幅では座れまい・・・

 読書にも飽き、散策にも飽きた頃、日本へ手紙を書いた。
 ヤンゴンの少年たちからドッサリと絵葉書を買ったので、それらを知人に送ろうと木陰のテーブルを陣取り、思いつくままにペンを走らせた。
 半日ほどかけて書き上げた葉書は20通。
 昼前にそれらを持って郵便局へ出掛けた。

 郵便局はホテルから歩いて30分ほどの所にある。
 町のメイン通りから一本外れた何も無い草原の道を行かなくてはならなかった。
 何故かこの道はやたらと立派で、完全に舗装された車道の中央分離帯には熱帯植物が植えられていて歩道も整備されていた。
 にも関わらず、通行する車と人が殆ど無い。
 ごく稀にバイクが追い越して行く時があるが、そんな時は決まって 「こいつ、何でこんな所を歩いているんだ?」 と言うような顔をしていつまでも振り返っていた。

 郵便局の建物も立派で、どこぞのお屋敷かと間違えるほどである。
 中は電話局と郵便局が半々に使用しており、窓口のおネエちゃんたちが暇そうにお喋りをしていた。
 日本への郵便代は、航空便で葉書1枚30チャット (約9円) 。
 切手のデザインもなかなか凝ったものが多く、ここから送る葉書そのものが良い土産になりそうだ。
 ただし、ちゃんと届けば・・・
 ミャンマーの郵便事情は劣悪だ。
 昨年のラオスもひどかったが、それ以上だ。
 この日に郵便局で投函した20通の葉書は、結局1通も届けられていない。
 ミャンマーで郵便を出すと、途中で切手だけ剥がされて捨てられてしまうことがあるらしい。
 剥がされた切手はそのまま売ってしまい、良い小遣い稼ぎになるそうだ。
 そのため、郵便は必ず郵便局の窓口に行き、局員が消印を押すのを確認しなければ、まず届くことはないとまで言われている。
 今回投函した絵葉書もすべて目の前で消印を押して貰ったのに、この始末である。

 ではミャンマー人はどうしているのか?
 国内便は諦めるしかないが、海外への手紙は外国人に託すのである。
 ホテルのスタッフたちも、日本やアメリカにペンフレンドがおり、3人から手紙を預かった。
 「日本でもタイからでも結構ですから、投函して下さい」
 と。

 日本からの郵便はちゃんと彼らに届いている。
 何故なら、日本の郵便局で出す手紙は切手ではなく、スタンプ式かレシート式だからだ。
 売れない物には手を出さないのである。
 郵便は国がおこなっている事業なのにとんでもないことである。

 郵便の話しが出たので、ついでに電話の話しもしておこう。
 郵便に負けず劣らず電話事情も劣悪だ。
 まず町中に公衆電話が皆無だし、ホテル (高級ホテルを除く )にもその類は無い。
 旅行者が電話をするには、基本的に電話局へ行かなくてはならない。
 国際電話の場合、窓口で申し込んでから1時間ほど待てば日本と話しができるそうだ。
 最悪は6時間ほど待たされることもあるとか…
 これは決して混んでいると言う訳ではないのだが、待たされる理由は分からない。
 待つのがイヤな人は、相当に割高だが町の電話屋へ行けばすぐに回線がつながる。

 店やホテルの人が使っている電話は日本にもあるような普通の電話機だが、どこでも厳重な管理がされていた。
 電話機は木の箱に仕舞われて鍵が掛けられているのである。
 きっと、この国では電話がまだ珍しいのかもしれない。
 やたらと使われては困るので、このような厳重な管理がされているのだろう。
 しかし、電話が掛かって来た時は大変だ。
 いちいち鍵を開けなくてはならないから。
 モタモタしていると電話は切れてしまう。
 1人に1台の電話が普及している日本では考えられないことである。

(第七章 終)



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