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タイ ぐうたらひとり旅  (第六章・仏の教えはぐうたら=j

アユタヤ行き急行列車


 6日目の午前8時、自分は駅にいた。
 旅を中断することを恐れ、アユタヤにも素晴らしい出会いがあることをひたすら信じてホテルをチェックアウトした。
 アユタヤまでの切符の購入する。
 8時52分発の急行列車で、アユタヤまでは5時間もかかるので贅沢にも2等車を指定する。
 駅には改札口が無く、ホームも線路から20センチほどの高さなので人々が自由に往き来きし、バイクも走っていた。

 屋台で朝食をとりながら列車を待っていると、定刻どおりに黄色の気動車がやって来た。
 2等と言ってもきれいな車内ではなく、二人掛けのリクライニングシートとエアコンが付いているだけである。
 物売りが3等車から一斉に飛び降りると、列車はディーゼル音とともに駅をゆっくりと出発した。

 どこまでも続く田園風景の中を列車は走り続けた。
 途中の駅では必ず物売りが乗って来て、わずかの停車時間にジュースや食べ物を売っていく。
 しかし、我々の2等車は専属車掌の怖い目が光り、物売りが乗って来ようものならたちまち追い出されてしまっていた。
 (昼メシ、どうしよう・・・)
 と気になっていたが、10時頃になると専属車掌が食べ物の注文をとりに来た。
 
 その後、正午になって発泡スチロールに入れられた食事が運ばれてきた。
 中味はカオパで、これがまたまた美味い!

 変わり映えのしない車窓風景に、いつしかウトウトと眠ってしまった
 「アユタヤ、アユタヤ」
 専属車掌に起こされた。
 ほぼ予定どおりの午後2時過ぎ、列車はアユタヤ駅に到着した。
 駅と言ってもホームが1本しか無く、線路を歩いて駅舎に向かった。
 
 駅前の道を真っ直ぐ進むと川にぶつかった。
 その川には渡し舟が運航されており、今にも崩れそうな桟橋で舟を待つ。
 
 対岸の乗り場に係員がおり、そちらで2バーツ (約6円) を支払ってアユタヤの町に上陸した。
 アユタヤの町はとても小さな町で、中心地はわずか500メートルほどなのだが、高校がいくつかあり常に学生で溢れていた。
 またここには大きなショッピングセンターがあり、かなりの賑わいを見せていた。
 町のほぼ中心に 『アユタヤホテル』 という、なんとも分かりやすい名前のホテルがあった。
 広々としたエントランスから堂々とフロントに向かう。
 この時点での持ち金を計算したところ、資金に余裕があることが分かった。
 そこで、アユタヤでは上限を1泊1,000バーツと決めていた。
 そしてこの旅で最高の贅沢、900バーツ (約2,700円) の部屋にチェックインする。



ムーンカフェ


 まずは町の散策。
 しかし、すぐ目の前の市場を覗いてしまうと、他に行くべきところが無くなってしまった。
 それだけ狭い町なのだ。
 ホテルの裏手に 『ムーンカフェ』 と言うおしゃれなパブを見つけた。
 タイに来てこの手の店に入る気はしなかったが、ハッピーアワーで夕方はビールが安かった。
 その看板につられ、ついフラフラと店に入る。
 店にはおばちゃんとその娘さんがおり、40バーツ (約120円) のシンハービールはとても良く冷えていて最高の喉越しであった。
 アユタヤ遺跡の地図を広げて明日の計画を練っていると、おばちゃんが話しかけてきた。
 おばちゃんは英語がとてもうまく、色々と相談に乗ってくれた。

 いったんホテルに戻り、夕飯を食べに出掛けようと思ったが、テレビでドラえもんが始まったのでついつい見入ってしまい、7時過ぎにホテルを出る。
 タイ語で喋るのび太はさらに間抜けだ。
 屋台で食事でもと思っていたが、すでにどの屋台も店じまいをして閑散としていた。
 屋台は夜中までやっていると思っていたが、この町はどうも違うらしい。
 メシ抜きは辛いので、先ほどのムーンカフェへ行ってみた。
 外に出されたテーブルでは欧米人たちが酒を飲んでいたが、店内には客がいなかった。
 「屋台が閉まっていたので、何でもいいから食べさせて」
 とおばちゃんに頼む。
 「なら、グリーンカレーがおいしいわよ」
 と英語で書かれたメニューを差し出してくれた。
 あまり辛いのはダメだと伝えると、辛さを押さえて作ってくれた。
 野菜のたくさん入ったカレーは、屋台ばかりで食べていた舌にはとても上品に感じた。
 「ところで、あんた明日はどうやってアユタヤを巡るの?」
 おばちゃんが聞いてきた。
 「もちろん、この足で…」
 と、自分の太ももをパチンと叩いてみせた。
 「アユタヤは広いから大変よ… じゃあ、自転車貸してあげるから、明日の朝とりに来なさい」
 と言われ、自転車を借りることになった。

 食後の酒を楽しんでいると、ひとりの日本人がやって来てカウンターに座った。
 その風貌からして単なる観光客ではないと思い、
 「彼、日本人?」
 おばちゃんにヒソヒソと尋ねた。
 「もう2ヶ月もここでブラブラしているのよ」
 そんな彼と目が合うと、向こうから話しかけてきた。
 30代半ばくらいの彼はタイが好きになり、会社を辞めてこのアユタヤに居座ってしまったとのこと。
 まさに沈没≠オてしまったのである。
 しばらくその彼と話しをしているうちに、気持ちを理解することができた。
 現代日本人がこの国で笑顔に接すると、記憶の奥底に忘れ去られた何かが蘇り、時の流れる速度が違い過ぎるニッポンに適応できなくなってしまうのであろう。
 時としてはそれはドロップアウト≠ニ呼ばれるが、そんな一言では表せない奥の深いものを感じた。



日本人ご一行様


 朝9時半、おばちゃんの店に行き自転車を借りる。
 「盗られちゃダメよ」
 と、頑丈なチェーンと鍵を渡されて出発。
 アユタヤ遺跡もスコータイ遺跡と同様で、立派な遺跡群が整備された公園内に点在するものであったが、スコータイと大きく違う点は、団体観光客が非常に多いことである。
 団体客は所構わず写真を撮り、遺跡のてっぺんに平気でよじ登り大騒ぎをしていた。
 かつて、ビルマ軍に占領されて首を落とされた仏像の無念を、ひとり静かに感慨にふけっていたのに、
 「日本の方ですか? シャッターを押して下さい」
 と平然と言ってくる。
 むやみやたらに写真を撮るのは構わないが、他人までも巻き込まないで欲しい。
 「オレは写真屋じゃねぇ!」
 とやさしくお断りをし、その場を去った。
 きっと、イヤな日本人がいたと彼らのアルバムの1ページに残ったことであろう。
 遺跡群の奥の方まで、彼らは象に乗って押しかけていた。



寝釈迦仏に習って


 団体さんを避け、場末の食堂にて昼食をとる。
 やはりタイ語表記なので何だか分からず、店のお兄ちゃんにメニューを指差しながら、
 「これ、何?」
 を繰り返した。
 「…フィッシュ …ビーフ …」
 と英語の単語で答えてくれたので、どんな料理か分からないがチキンと言っていたものを注文した。
 これまでの経験から、鶏肉の入った炒飯か麺類だと思っていた。
 が、テーブルに運ばれてきたのは、カリカリに焼かれた鳥が皿にデンと鎮座していた。
 お兄ちゃんの言っていたとおりチキン≠サのものである。
 ナイフで削りながら口にしてみたが、そのままでは味が無く、添えられてきたタレを付けるとなかなかの美味だった。 (40バーツ = 約120円)

 午後の陽射しが強くなっていたが、車にあおられながら自転車をこぐこと1時間。
 ワット・ヤイチャイ・モンコンと言う寺までやって来た。
 到着した頃にはTシャツは汗でビッショリ。
 おまけに尻は痛くなって悲惨な状況だった。
 なぜこんな苦労をしてまでここに来たのか?
 それは、この寺の寝釈迦仏を一目見たかったからである。
 仏は決して裏切らなかった。真っ青な空の下、白い巨大な釈迦仏が気持良さそうに横たわっていた。
 今回の旅のテーマでもあるぐうたら≠ノ相応しい仏陀がそこにあったのだ。
 この仏の教えは、まさに 「ぐうたらすることが、人生を豊かにする」 なのである。
 静かな寺院で昼寝をしている仏陀を眺めていると、心の底からやすらぎを感じてきた。
 仏陀の近くには池があり、その周囲の芝生には適当な木が植えられていて涼しそうな木陰を作っていた。
 数人の地元民が、その木陰で昼寝をしていた。
 自分もそこに混ざりゴロンと横になる。
 突き抜けるような青空。
 聞こえてくるのは池の水音だけである。
 時間に追われた団体さんには、決して真似ることのできない優雅なひとときであった。

 さらに、団体さんに真似ることのできない苦労をし、ムーンカフェまで戻った。
 おばちゃんの注いでくれたビールが、渇きと疲れを一気に取り去ってくれた。
 夕べ仲良くなったフランス人も来ており、情報交換をしているうちに時間が経ち、そのまま夕飯を食べる。

(第六章 終)



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