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タイ ぐうたらひとり旅  (第五章・空飛ぶ野菜炒め)

坊主とホコリにまみれて


 朝のフロントに南沙織はいなかった。
 よって事務的にチェックアウトがおこなわれた。
 近所の食堂で遅い朝食をとり、バス停に向う。
 バス停には小さな待合所があり、メモを頼りにピサヌローク行きの時刻表を探した。
 出発はどうやら1時間後の12時のようだ。
 しばらくして、係員らしき女性がやって来た。
 彼女が道路に小さな木の机を出すと、そこら辺にいた人々が一斉にそこへ群がった。
 砂糖に集まるアリのように。
 早く来た順番に並ぶわけでなく、みな他人を押し退けて彼女に金を差し出していた。
 直感的にピサヌローク行きだと感じ、背中のリュックを振り回しながら自分も人々の群れに入る。
 「ぴさぬろーく? ぴさぬろーく?」
 必死に叫びながら適当な金額の札を差し出す。
 かわいそうな外人とでも思ってくれたのか、すぐに切符らしき紙切れと釣銭が返ってきた。
 このバスはこれでひと安心ではなかった。
 切符を手にしたら座席を確保するためにバスまで走るのである。
 
 運良く一番前の座席を確保することができ、改めて切符とバスの行き先表示を確認する。
 バスはポンコツの観光バスタイプであるがテレビも備え付けられていた。
 テレビを観ながらの快適なバス旅行の開始… の予定であったが、バスは超満員で2人掛けの座席に3人が座り、扉にしがみついている人もいた。
 こちらはなんとか座っているものの、重いリュックを膝に抱え、坊主の集団に囲まれて相当に窮屈であった。
 また、テレビも映りがかなり悪いのに、これでもかと言わんばかりの大音量である。
 タイ語の理解できない自分としては騒音以外の何物でもなかった。
 
 しかし、悲劇はそれだけではなかった。
 バスは前後の扉とすべての窓を全開にして走っていた。
 町中の道路は舗装されているから問題は無いが、一歩町を出るとその道路は赤土の路面へと変化する。
 日本ではほとんど見られなくなった未舗装道路である。
 その道路を猛スピードで走るので車内はホコリだらけとなった。
 赤土のホコリだけに、車内の空間はすべて茶色と化してしまうのであった。
 座った場所が悪かった。
 外からの新鮮なホコリを一手にかぶってしまうのである。
 坊主の集団と一緒に顔を隠して耐えたが、他の乗客は気にせずに映りの悪いテレビを観て呑気に喜んでいた。

 道路は地平線の彼方まで真っ直ぐに続いていた。
 (なんで、こんな所で降りるんだ?)
 と言うような荒野の真ん中で少しづつ乗客が降り、やがてピサヌロークの町中へと入ってきた。
 賑やかな所でバスが停車し、多くの乗客が降り始めた。
 一緒になって自分もバスを降りると、そこにはトゥクトゥクの客引きが大挙して待ち構えていた。
 スコータイで懲りているので今回は無視。
 逃げるようにして歩き出す。
 
 町は数多くの商店が建ち並び、人や車も忙しそうに行き交っていた。大きな町だ。
 線路沿いに15分ほど歩くと駅前に出た。
 1ブロック先に立派なホテルが見えたので、そこへ足を運ぶ。
 交差点の角にデ〜ンと構えていたのは 『アマリーン・ナコーン・ホテル』 であった。
 エントランスとロビーが大理石で出来ており、リュックを背負った客は場違いと言った感じであるが、聞くのはタダなのでフロントで料金を尋ねる。
 このようなホテルなので当然英語が通じると思っていたが、4人いるフロント係はタイ語しか通じなかった。
 シングルは無く、ツインルームで480バーツ (約1,440円) だと言う。
 立派な割には値段が安い。
 部屋を見せてもらう。
 静かで落ち着いた部屋は広々しており、シャンプーなどのアメニティーグッズも充実していた。
 もちろんテレビや冷蔵庫も完備されており、案内してくれたお兄ちゃんに、
 「480バーツ?」
 と、もう一度尋ねてみた。
 「よんひゃくはちじゅう。安いでしょ」
 とカタコトの英語で答えてくれた。
 即チェックインしたことは言うまでも無い。



仏像に魅せられて…


 時刻は午後1時半。
 かなり気温も上がってきたが、この町にはTATがあると聞いていたので、情報を仕入れるためにそこに向かった。
 町外れの小さなオフィスの扉を開けると、一人の青年と一匹のネコが出迎えてくれた。
 観光庁の役人であるナロン君は日本語に訳された町の地図を出し、流暢な英語でとても親切に町の観光名所を教えてくれた。
 来客者台帳を見ると3日前に名古屋の日本人が訪れていた。

 「歩いて廻ると疲れるよ」
 と言ってくれたナロン君の忠告を聞かず、まずは民芸博物館へ歩いて向かう。
 炎天下、汗をビッショリとかきながらさらに町外れの博物館に到着した。
 ここは、ひとりの博士が長年にわたって収集したタイの民芸品を展示した博物館で、学術的にも重要なところらしい。
 嬉しいことに、入場料が無料であった。
 中庭の周囲にいくつかの民家が建っており、その中にテーマに分かれた民芸品が所狭しと展示してあった。
 展示物には英語の解説と図が示されてあり、大変分かりやすくなっていた。
 各建物の内部は板の間になっていて、開け放たれた窓の向こうには、東南アジア特有の田園風景が広がっていた。
 そこから流れてくる風はとても涼しく、ここまで歩いてきた苦労を一瞬にして忘れさせてくれた。

 再び炎天下を歩くこと30分。
 タイで最も美しいとされている仏像を安置した、ワット・ヤイ (ヤイ寺) に着いた。
 境内は縁日のような賑わいで、生活用品を売る露店がたくさん店を開いていた。
 拝観料は10バーツと聞いていたのだが、どこにもそれらしい窓口は無く、気付くと本堂の中に入っていた。
 信仰心の厚いタイの人々がおおぜい参拝をしており、仏像の前にひれ伏して願いごとを唱えていた。
 その中に混ざり正座をしながら仏像を見上げる。
 金色に輝く大きな仏陀は威厳を持って人々の前に鎮座し、すべての迷いを救ってくれるようであった。
 信仰心の薄い自分ですら、時を忘れてこの仏陀に魅せられていた。
 
 かなりの時間、仏陀の前にいた。
 外に出るとその光が眩しく、一瞬にして俗世に戻されたようだ。
 露店を冷やかしながら歩くと、つくねのような物を焼いている屋台があった。
 食欲を誘うその匂いについついひかれ、ひと串買ってみる。
 地元の人もたくさん買って行くそれは、味の濃いヤキトンのようなもので、とても美味かった。



昼のソンカウ


 町の西側にはナーン川という大きな川が流れていた。
 そこには、川面に浮かんだ水上生活者たちの掘っ建て小屋がひしめいていた。
 ナロン君によると、この光景もこの町の名物なのだそうだが、自分にとっては貧困を目の当たりにし、少し切ない気持ちになった。
 そんな中に混ざった一軒の水上食堂を発見した。
 本来は水上レストラン≠ニ呼ばれているが、そんな高級なものではなく、水に浮かぶ屋台のようなものだ。
 店の名は 『ソン・カウ』 。
 土手を下り、一枚の細い板を渡って店に入る。
 誰もいない店内でおばちゃんがヒマそうにしていた。
 お決まりのシンハービールを注文し、川の流れを眺めながら喉を潤した。
 川は汚く、色々な物が流れていた。
 ゴミや水草はもとより、時折ではあるがイカダのような物まで流れてくる。
 そのイカダには仏様が祀られてあり、日本の精霊流しのようであった。
 
 ひとりでぼんやりとしていると、店のおばちゃんと娘さんが話し掛けてきた。
 彼女たちはタイ語以外はまったく話せず、自己紹介の後はすべて身振り手振りでの会話 (?) となった。
 こちらも日本語で喋りながらジェスチャーを添えて意思を伝えた。
 こんなやりとりであったがなぜかとても盛り上がり、奥にいたもうひとりの娘さんや親戚のおばさんたちも会話に入ってきた。
 彼女たちもジュースを飲み、タイ舞踊を披露してくれるなどし、自分を楽しませてくれた。
 無理な言葉を使うより、意味は通じずとも気持ちを込めた言葉のほうが、数倍も相手の気持ちに訴えることができることを知った。
 
 また夕飯を食べに来ることを約束しホテルに戻る。



夜のソンカウ


 夕暮れの町はあるもの≠ノ占領されていた。
 人々は逃げるようにして道路を行き、その鳴き声が町じゅうに響き渡っていた。
 ―― あるものとは、
 ムクドリの大群である。
 夕方から夜にかけ、ムクドリの大群が町に帰ってくるのである。
 その光景は恐ろしいほどで、空は真っ黒に染まり、電線や屋根などにビッシリとムクドリがとまっていた。
 その鳴き声に車の騒音すらかき消されてしまうほどである。
 困るのがフン攻撃である。
 道路には雨のようにフンが落とされてくる。
 その間を人々が避けながら走っているのであった。
 日本でもムクドリの大群による被害を聞いたことがあるが、これほどの大群はおそらく日本でもないだろう。

 ナロン君に貰った地図に興味を惹かれるものがあった。
 空飛ぶ野菜炒め
 とだけ書かれ所にイラストが入っており、野菜炒めが空に舞っているのだ。
 (これは行ってみるしかないでしょう)
 と、そこへ向かった。
 夜の6時を過ぎると、ナーン川のほとりは屋台で埋め尽くされていた。
 その屋台を探しながら歩き、ついに発見!
 タイ語、英語、日本語の3ヶ国語で書かれた看板に、まぎれもなく空飛ぶ野菜炒め≠フ文字が。
 早速テーブルに座り、店員に看板を差した。
 しばらく待っているとその店員がやって来て、
 「ショーが始まるよ」
 と、道路の方を指差した。
 そちらを見ると、ワゴン車の屋根を改造した舞台が造られていた。
 そこに2人のお兄ちゃんが登り、屋根の上で肩車をした。
 上のお兄ちゃんが手に皿を持ってウォーミングアップを始めた。
 突然、舞台がライトで照らされ、お兄ちゃんたちが大きく手を広げた。
 他のお客さんも箸を休めてそちらを見入っている。
 厨房からおじさんがフライパンを持って出て来た。
 おじさんはフライパンに反動をつけると、その中の野菜炒めを夜空に向けて一気に放り投げた。
 宙を舞った野菜炒めは闇に消えたように見えたが、次の瞬間、見事にお兄ちゃんが皿で受け止めた。
 距離にして十数メートルくらいだろうか。
 お客さんたちは大喜びで拍手喝采だ。
 皿はそのまま舞台から自分のテーブルに運ばれてきた。
 あまりのバカバカしさに、思わず笑いが止まらなくなった。
 料理は単なる青菜の油炒めだった。 (30バーツ = 約90円)
 放り投げることに何の意味があるのだろうか・・・

 散々笑ったあと、ナーン川に沿って歩いて行った。
 途中に広場があり、そこには特設のステージが設置されて巨大なスピーカーから賑やかな歌が流れていた。
 近付いてみると、眩しいほどのライトに照らされたステージ上で、4人の女の子が超ミニスカートで唄い踊っていた。
 大きな看板を見ると、ラジオ局が主催している歌謡祭りのようである。
 しかし、ほとんど観客がいない・・・
 一面の芝生となっている観客席には、2〜3人の客が10組ほど座っているだけで、そのまわりをガキどもが自転車を乗り回していた。
 やがてガキどもはステージに上がってしまい、女の子たちと一緒に踊り始めた。
 あれだけ立派なステージなのに、この状況はあまりに悲し過ぎる。

 夜のソン・カウはとても綺麗に見えた。
 それは暗い川面に店だけがライトアップされていたからだ。
 「あちし、あちし!」
 店に入るとおばちゃんがオレの名を叫びながら抱きついて来た。
 「だから、あちし≠カゃなくてあつし≠セってば・・・」
 タイの人はつ≠フ発音ができないようだ。
 店の奥には一隻のレストランボートが停泊していた。
 そのデッキでは多くの欧米人が食事を楽しんでいた。
 「おばちゃん、結構儲かってるじゃない」
 ボートを指差しながらそう言うと、
 「あちしも乗るか?」
 と聞いてきた。
 「いや、乗らない。汚い川と欧米人を見るために乗っても・・・」
 そう言って断るとおばちゃんは操縦士に合図をし、船は静かに川を進んで行った。
 
 奥のテーブルに陣取り、夕食を出してもらう。
 対岸にも水上レストランがあり、その明かりがとても幻想的であった。
 夕方と同様におばちゃんたちと盛り上がった。
 
 別れ際、手紙をくれと店の名刺を貰った。
 しかし、タイ語で書かれてあるためにどれが住所でどれが名前か分からなかった。
 アルバイトの若者が英語を書くことが出来たので、それを訳してもらった。
 
 土手を行く自分に、おばちゃんたちはいつまでも手を振ってくれた。

 2時間経ってもまだ終わらない寂しい歌謡祭を横目に見ながら、ムクドリが寝静まって安心の町をホテルまで帰る。

 その夜、悩んでいた。
 今後の予定についてである。
 ここに1泊し、アユタヤ経由でバンコクに戻るつもりでいたが、その計画に少々のためらいを感じていた。
 それは、バンコクに近付けば近付くほど観光化されてくるので、旅が憂鬱なものになってくるのではないかと思えたからだ。
 そして、この町とスコータイの町が大変に気に入ってしまったので、この町にもう少し滞在してからスコータイに戻り、バンコクに向かおうかと考え始めていた。
 残された日数はあと4日。
 有意義な旅を続けるための計画は、なかなか結論が出なかった。

(第五章 終)



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