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メコンデルタに暮らす人々  (第四章・待ってろよ、マングローブ)

ミトー再び


 朝の旅行社は大忙しだ。
 各種ツアーの出発時刻はほぼ同じで、大きな荷物を持った旅行者で店の前はごった返していた。
 「メコンデルタ2泊はこっち! クチ日帰りはあの青いバスですよ!」
 大声を出しながら旅行社のスタッフが飛び回っている。
 大沢君もその一人だ。
 「ぽからさん、お早うございます!」
 目敏くこちらを見つけ、元気いっぱいの挨拶を交わしてくれた。
 「今日一日、呼び込みを頑張りますからね〜」
 ホワイトボードを指差しながらニコッと笑った。
 
 店頭の人混みの中でしばらく待っていると、1台のマイクロバスがやってきた。
 この新車のきれいなバスに乗り込み、豪雨で観光をあきらめたミトーへリベンジだ。

 ツアーメンバーは 男性3名+女性7名の10名で、2組4名が複数参加、残りの6名が単独での参加だった。
 ほとんどが複数での参加だと思っていたので、これは意外だった。
 ガイドは日本語を2年間学んだトムさん。愛嬌のある明るい女性だ。

 バスは朝のラッシュで混み合うホーチミン市を抜け、南を目指して快調に走った。
 そして休憩をとりながら、約2時間でミトーの船着場に到着した。
 豪雨の中、ボートツアーの客引きに声を掛けられた場所だ。
 まずは、フルーツマーケットを見学した。
 ここは果物を売る露店が多く集まっているので、通称でそう呼ばれている場所だ。
 トムさんのおおまかなガイドを受けた後、30分間の自由行動となった。
 『え〜! たった30分か… 時間が足りねぇ〜』
 そう思ったが仕方ない。楽に周遊できるツアー宿命だ。
 のんびりとはしていられない。すぐさま市場の喧騒の中に身を沈める。
 露店の人々はとても気さくだった。
 こちらが冷やかしだと分かっていても、売り物のフルーツや菓子などを試食として食べさせてくれた。
 そして、写真にも喜んでポーズをとってくれた。

 自由時間の30分なんてすぐに終わってしまった。
 後ろ髪を引かれる思いで舟に乗り込み、ミトーに浮かぶ島々へ向かう。
 太陽が眩しい。こんなに良い天気になるのだったら、ミトーに残っていれば良かったとつくづく思う。

 果樹園の中で昼食をとった。
 丸テーブルに2組に別れて座ると、すぐに料理が運ばれてきた。
 メインがあんかけ焼きそばのようなヌードル、そしてライスペーパーに好みの野菜や肉を巻いて食した。
 さらにミトーの名物 『象耳魚』 が1テーブルに1匹出された。
 鯛ほどの大きさのその魚は、爪のような鱗に体を守られ、顔つきはピラニアのようで何ともグロテスクな魚だ。
 白身で味は極めて淡白 ―― いや、味が無いと言ったほうが正解かな。
 ベトナム名物のヌックマム (魚で作った醤油) をかけて食べるとちょうど良い。
 骨が多くて食べにくい。
 こんなグロテスクな魚を苦労しながら食べていると、それだけでテーブルは盛り上がってきた。
 そしてツアーメンバー同士が打ち解けてきたのだ。



恐怖のハチミツ工場


 再び舟に乗り込んで、キャンディー工場の見学。
 さらに舟を進めて、ハチミツ工場へ向かった。
 ここではハチミツ茶を飲みながら民族音楽を楽しんだ。
 この工場の庭では大蛇が飼われていて、ツアーメンバーはそれを首に巻いて楽しそうに記念写真を撮っていた。
 「ぽからさんも撮ってあげますよ〜」
 遠巻きに見ていた自分に、女の子たちから声が掛かった。
 じょ、じょ、冗談じゃない! 自分は大のヘビ嫌いなのだ。
 「い、いや 結構です。大っキライなんですよ。早くその蛇をしまって下さいよ…」
 「え〜!?、パッカーでも蛇が苦手なんだ。へえ〜」
 あまりの怖がりように、ツアーの皆さんから爆笑された。
 でも、バックパッカー≠ニ蛇≠ニはまったく関係ないと思うんだけど…
 
 恐怖のハチミツ工場を後にして、次は細長い小舟に分乗してジャングルクルーズ。
 これはたった15分程度のクルーズだったが、鬱蒼と生い茂る木々にベトナム南部の自然の豊かさを感じた。
 
 夕暮れの中、マイクロバスはホーチミン市への帰路についた。
 疲れ切ったメンバーたちは深い眠りに堕ち、帰りのバスの中はとても静かだった。
 
 今朝ほど出発した旅行社の前に17時に到着し、そこでこのツアーは解散となった。
 バスを降りると、すぐに大沢君に呼ばれた。
 「ぽからさん、お疲れさまでした。明日のマングローブツアーですが、2人ほど検討しているお客さんがいるんですよ。今晩までに返事をもらうことになっていますから、夜の9時にはどうなるか決まります」
 何とかこの2人が決断してくれ、行けることになれば良いのだが…

 遅い夕食を終えて21時半にホテルに戻ると、旅行社の陽子さんがフロントにいた。
 「あ、ぽからさん、こんばんは!」
 「あ、陽子さん… マングローブツアーの件ですね?」
 「はい。実は、検討していた2人が参加を止めちゃったんです。だから明日のツアー催行できません。申し訳ありません」
 「…そうでしたか。残念っ!! じゃあ、明日はクチトンネルを楽しみます。わざわざ来ていただいてありがとうございました」
 「おやすみなさい」
 大変に残念だったが、次回ベトナムに来た時のための楽しみとし、明日は今日のツアーメンバーからも「面白かったよ」と評判だったクチトンネルツアーに参加することにした。
 
 部屋に戻ると大沢君からもお詫びの電話があった。



交通事故現場


 泊まっているホテルは朝食付きで、最上階である10階から街並みを眺めての気持ちの良い食事ができた。
 単独の日本人客も多く、挨拶をきっかけに情報交換がおこなわれた。
 「昨日、ハムギ通りでアメリカ人女性がひったくりに遭うのを見ちゃいました」
 とか、
 「日本領事館付近は夜になると強盗が出ますよ」
 など、犯罪発生情報が多かった。
 最後には必ず
 「お互いに気を付けて楽しい旅をしましょうね」
 と締めくくった。

 今日のツアーは男3名。
 そしてガイドも男性のニャンさんだ。
 わずか3名の参加なので、英語ツアーの一行とマイクロバスをシェアしてのツアーとなった。
 ガイドのニャンさんと雑談をしながら、まずはベトナムの新興宗教であるカオダイ教の教会に向かった。
 バスは快調に走っていたが、ある場所で急にスピードを落とした。
 「交通事故ね。…人、死んでる」
 とニャンさんが前の方を指差した。
 道路の中央部に数人の警察官がおり、住民がこの光景を遠くから眺めている。
 ガソリンの漏れたバイクが道路の端に転倒したままで、スリップ痕が生々しい。
 そして、センターラインの上にはムシロをかけられた遺体が横たわっていた。
 「老人だね」
 顔は見えなかったが、空を掴むように伸びた白い腕がムシロの端から出ていた。
 「バイクにはねられた。この道、事故多い。ショッキングね」
 ニャンさんが付け加えた。
 どこまでもまっすぐに延びるこの道は、車もバイクもかなりの速度で走行している。
 ひとたび事故が起きれば、死亡事故につながるのも当然だ。



6時間かける価値は?


 ホーチミン市から走ること3時間。
 広大な敷地の中に建つカオダイ教寺院に到着した。
 礼拝は正午から始まるので、それまでは寺院の内部を見学した。
 カオダイ教は、キリスト教、仏教、イスラム教をごちゃ混ぜにし、そこに道教と儒教を振りかけたような宗教で、キリスト、釈迦、李白、そしてビクトルユゴーが聖人として祭られている。
 人類の平等≠唱えている宗教なのに信者は数階級に分けられており、階級が上がるにつれて本尊に近付けるようになっている。
 礼拝堂内は階段状になっており、階級が上がると礼拝する場所も高くなっていくのだ。
 「どこが平等なんだろうね…」
 と3人でヒソヒソと話す。
 
 少しずつ信者が集まって来ると、観光客は2階席に移動するように言われた。
 白装束の信者が整列をし、奇妙な音楽とともに礼拝が始まった。
 観光≠ニしては5分も見ていれば充分、って感じだ。
 すぐに飽きてしまった欧米人たちは、テラスに出て日光浴をしていた。

 ホーチミン市から往復6時間もかけてくる価値は、果たしてあったのだろうか?
 


ベトコンの拠点


 昼食をとりながら、続いてクチトンネルへ向かう。
 ここはベトナム戦争当時、解放軍のゲリラの拠点だった地で、小さなトンネルが縦横に掘られている。
 南ベトナム解放民族戦線の兵士(ベトコン)はこのトンネルを利用し、ジャングルの中や村々を自由に移動して敵を翻弄してきたのだ。
 体の小さいベトナム人はこのトンネルで行動することができるが、体の大きなアメリカ人はこのトンネルに入ることは容易ではなく、空爆による大量の爆弾投下と枯葉剤の散布がおこなわれた場所だ。
 枯葉剤の影響はいまだに人々の体に障害を残している。

 まずはドキュメンタリー映画を観て、ベトナム戦争におけるベトコンの活躍を学んだ。
 内容はベトコン兵士を賛美することに終始したものだった。
 その後、ジャングル内に作られた順路に従ってトンネル内部を見学した。
 トンネル内は蒸し暑く、そして狭くて真っ暗だ。
 こんな場所で銃を持って戦っていた兵士たちの苦労を思い知った。
 途中には射撃場もあり、1発1USドルで色々な種類の銃が撃てた。
 欧米人たちは楽しそうにバカスカ撃っていたが、耳をつんざくその音のデカさには驚いた。
 
 すっかり陽も落ちた18時にホーチミン市に戻る。
 ベトナム最後の夜は日本食を食べることにした。
 前回のベトナム旅行の時から気になっていた店があった。
 そこはガイドブックにも載っているバックパッカーには有名な店で、デタム通りでも古くからある店だ。
 一歩店内に入って少々引いた。
 『ここは場末のスナックか〜?』
 と思わせるような店内だった。
 カウンターと少しのテーブル席が配置され、カウンター内には店員の若い女の子たちが3人ほどいた。
 彼女たちは白いブラウスにタータンチェックの膝上のスカートをはき、胸にはリボンを付けていた。
 そしてキャピキャピと楽しそうに騒いでいる。 まるで女子高生のようだ。
 しかし、食事はかなりまとも≠セった。
 プレートに盛られて運ばれたエビフライ定食は、茶碗蒸し、ポテトサラダ、漬物、味噌汁、そしてご飯、そのどれもが日本で食べるのと何ら変わらない味と食感だった。
 デザートにはパイナップルも出され、すっかり胃袋は満足した。
 店の雰囲気がもう少し良かったらな… と残念に思う。



さよならベトナム


 日本への帰国便は夜出発なので、最終日はのんびりとホーチミン市を散策した。
 日本人ツアー客もたくさん訪れているドンコイ通りを中心に、土産を買ったりお茶を飲んだりと、ゆったりとした一日を過ごした。
 ホテルはもう1泊分確保していたので、昼寝をすることもできた。

 ベトナム名物の渋滞も見納め。
 空港に向かうタクシーの中から、赤いテールライトの波をぼんやりと眺めた。
 空港の出発ロビーは日本人客でごった返していた。
 成田行きと関空行きの直行便が、ほぼ同じ時刻に出発するからだ。
 飛び交う日本語の会話に、もはやここは日本にいるのと変わらない気がした。
 「ぽからさ〜ん!」
 ミトーのツアーで一緒だった女子大生と再会した。
 「マングローブツアーは行けましたか?」
 「あははは〜 ダメでしたよ」
 「それは残念でしたね」
 彼女は関西国際空港へ向かう客だった。
 「では最後の最後、お互いの飛行機が落ちませんように!」
 成田と関空、搭乗口が左右に大きく分かれる場所で大きく手を振って別れた。

 「次回まで待ってろよ、マングローブ林!」
 飛行機の窓からそう呟くと、ベトナムの灯りは小さく眼下に広がっていった。

(完)



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