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メコンデルタに暮らす人々  (第一章・小舟に揺られて路地裏散策)

拍子抜け



 「よ〜し、来るなら来い、客引きども!」
 気合を入れて空港ロビーに足を踏み出したのだが…

 拍子抜けした。
 どこから見ても日本人、それも個人旅行の格好でキョロキョロしているのに誰も言い寄って来ない。
 4年前にこの空港に降り立った時は、大勢の客引きに取り囲まれて腕を引っ張られ、さらに危うくボッタクリタクシーに騙されるところだった。
 とても混沌とした空港の印象が強かったのに、どうしたことか、空港ロビーは地元の人々でごった返しているものの、どことなく整然とした感じだ。
 とても静かに人々が行き交っている。
 空港が新しくきれいになって、人々の意識も変わったのだろうか。
 そんな中で、唯一ひとりだけ声を掛けてきた客引きがいた。
 「市内までタクシー10ドル」
 「メーターで行くからいらないよ」
 「この時間は渋滞していて高くつくよ。10ドルなら安いよ〜」
 流暢な英語で4年前と同じようなことを言っている。
 しかし、静かに手を振るとそれ以上を言い寄ってくることはなく、すぐに開放された。
 4年前ならいつまでもしつこく付きまとわれていたはずなのだが。

 空港ロビーの前に並んでいたメータータクシーに乗る。
 「メーター?」
 と確認をすると、
 「当然だよ。なぜそんなことを聞く?」と言いたげな顔で、最新式の料金メーターをポンと叩いた。
 
 市内を走るバイクの数は変わっていなかった。
 いや、むしろ増えたのかも知れない。
 その流れに乗って安宿街のデタム通りを目指す。
 「どこのホテルに泊まるんだい?」
 タクシー運転手の兄ちゃんが片言の英語で尋ねてきた。
 「まだ決めてないけど… どこか安くていいホテルを知らないか?」
 「そっか、そっか〜 ならば、このホテルはどうだ?」
 「待ってました!」と言わんばかりに、間髪入れずにホテルのパンフレットが手渡された。
 パンフレットを見る限りでは、ホテルの雰囲気は良さそうだ。
 「朝食も付いてるよ。ベリーチープね」
 兄ちゃんはさらに畳み掛けるように付け加えた。
 デタム通りには狭いエリアに小さなホテルが無数にある。
 1つのホテルで気に入らなければ、いくらでも次は見つかるのだ。
 それに陽はまだ高い。
 ここは運転手の兄ちゃんのお勧めホテルへ行くことにした。

 デタム通りの入口にそのホテルはあった。
 間口が狭く奥行きのある建物で、部屋は5階だった。
 一応、ツインベッドだが、部屋の90%をベッドが占めていた。
 窓もあるがその向こうは工事中の建物が見えるだけ。
 料金もそれなりに安いし、どうせ1泊だけなのでこの部屋に泊まることにした。

 個人旅における重要な仕事 ―― それはリコンファームだ。
 今回はベトナム航空を利用したため、リコンファームが必要だった。
 散歩がてらに歩いてオフィスへ向かうことにした。
 夕方の喧騒がさらに増す中、バイクに何度も轢かれそうになりながら、ベトナム航空のオフィスに到着した。
 混んでいる… 多くのベトナム人たちがソファーに座っている。
 しかし、カウンターは空いている。
 じゃあ、この人たちは何なの…?
 どうやらベトナム航空に用事はないが、ここが涼しいので休んでいる人たちのようだ。
 すぐに自分が呼ばれ、いたってスムーズに手続きは終了。

 デタム通りに戻り、生春巻きをつまみながら国産ビールの 『333』 を一気に飲む。
 「ん〜、この味この味、ベトナムだな〜」



困っているのは誰?



 朝食付きのこのホテル、食事をする場所は食堂ではなく、1階ロビーにある椅子に座って食べるのであった。
 一応、メニューはある。
 『ヌードル』 を頼んでみた。
 ベトナムと言えば 『フォー』 。勝手に期待をしていた自分が悪かったのだが…
 運ばれてきたのはインスタント・ラーメン。しかも、麺の形状が四角いままだ。
 まぁ、サービスの食事だから文句は言えまい。
 「せめてもうちょっと麺をほぐしてくれよ〜」と思いながら食べてみると、確かに麺はインスタント、それも昔懐かしい味がする。
 ところが、スープはかなり本格的な味だ。
 鶏ガラでじっくりと煮込み、ベトナム風に香辛料で味を調え、香草でさらにその味を引き立てる…
 スープの一滴一滴が真珠のように光り輝き、そこに料理人のこだわりと確かな腕が伺えた。
 もったいない… スープと麺のバランスが悪過ぎる。
 スープにこだわるあまり、麺にまで気が回らなかったのかな?

 さて、今回の旅はメコン川の最下流にあたるメコンデルタ地帯≠巡る旅で、そこに暮らす人々の写真を撮ることを目的にした。
 ホーチミン市には1晩だけの滞在で、2日目の今日は朝から移動である。
 昨夜にガイドブックをパラパラと読みながら、まずはカントーを目指すことにした。
 カントーへは、ホーチミン市の外れにあるミエンタイから1時間に1本程度の割合でバスが運行しているようだ。
 ホテル前で1台のタクシーをつかまえる。
 乗り込む前に運転手のおばちゃんに、
 「ミエンタイ・バスターミナル、OK?」
 と確認。
 一瞬おばちゃんの顔は戸惑った表情を見せたが、大きく頷いたのでそのまま後部座席に乗り込む。

 大通りはすでに朝のラッシュが始まっており、信じられないほどの数のバイクが通りを走っている。
その波に流されながら車はしばらく進む。
 やがておばちゃんが自分の携帯電話を取り出した。
 日本の女子高生のように、ストラップがジャラジャラと付いたピンクの携帯電話だ。
 ベトナム語で誰かと話している。
 そして車を路肩に停車させると、おもむろにこちらに振り返り、その携帯電話を自分の差し出した。
 「はぁ?」
 その意味がすぐには理解できなかった。
 おばちゃんは「電話に出ろ」といった仕草をしている。
 「なんで?」
 促されるままに恐る恐る電話に出ると、若い女性の声だった。
 「 May I help you? 」
 「??? (誰が困っているんだ?) … Who need help? 」
 すると電話の相手も一瞬困惑したように、
 「……m,m,m, You need help! 」
 どうやら助けが必要なのは自分のようだ。
 でも、自分は何で困っているんだ…???
 「 Me? … Why need help? 」
 「???…… Where you go?」
 「…!!! あ〜なんだぁ〜 そういうことか!」
 「 Pardon me!」
 「 No problem. Thank you! 」
 運転手のおばちゃんがバスターミナルを理解できず、自分の会社の英語通訳に電話をかけたのだった。
 携帯電話をおばちゃんに返しながら、
 「おばちゃ〜ん、そうならそうと最初から言ってくれよ… えっと〜 ミエンタイ・ベンセー=v
 「オ〜!ベンセー?」
 「イエス!イエス!ベンセー! ミエンタイ・ベンセー!」
 ベンセー≠ニは、ベトナム語でバスターミナルのことだ。
 ベトナムならば 「バスターミナル」 くらい通じるかと思っていたが、それは違っていた。
 この後の町でも「バスターミナル」はまったく通じず、「ベンセー」 は重要語句のひとつとなった。



疾走するミニバス



 デタム通りから30分ほど走った場所にミエンタイ・バスターミナルがあった。
 市場のように賑やかで活気があった。
 人混みをかき分けながら車はゆっくりと構内に入って行く。
 たくさんの窓口が並んでおり、ベトナム語で行き先が大きく書いてある。どうやらここで切符を買うようだ。
 おばちゃんは車を停めると、「カントー、カントー」 と言ってひとつの窓口を指差した。
 タクシーを降りると、すぐに大勢のおやじたちに取り囲まれた。
 彼らは口々に何かを言っているが、ベトナム語なのでもちろん意味不明だ。
 「カントー! カントー!」
 そう叫ぶと、3人ほどのおやじが腕を引っ張って窓口まで連れて行ってくれた。
 そして窓口の中にいる兄ちゃんに何かを言うと、手書きの切符が差し出された。
 おやじたちと兄ちゃんが、窓口に掲げられた看板を一生懸命に指差す。
 そこにはカントーまでの運賃が表示されていた。
 その金額を兄ちゃんに手渡すと、おやじたちは建物の裏手に行けと指示してくれた。
 裏手に回るとそこは巨大な駐車場のような場所で、大型バスやワゴン車が無秩序にたくさん停まっていた。
 大きな荷物を持った大勢の乗客たちが行き交い、その中を物売りたちが行ったり来たりして行商に励んでいた。
 「ヘイ! へ〜イ!」
 自分を呼ぶ声がした。
 先ほど切符を売っていた兄ちゃんが「こっちだ」と手を振っている。
 カントー行きのバスはワゴン車だった。民間が運行しているミニバスというやつだ。
 兄ちゃんがバックパックを後部座席の下に収納してくれ、指示された座席に腰を下ろす。
 すでに数人のベトナム人が車内で出発を待っていた。
 腕時計を指差して、ジェスチャーで隣のおやじに「出発は何時?」と尋ねるが、「さあ?」 とニコッと笑うだけだ。
 エンジンを切っているので車内は蒸し風呂のように暑い。
 そして物売りがしつこく行商にやってくる。さらに持病の腰痛が出始めた。
 これはかなり辛い…
 「早く出発してくれ〜」 と願うばかりだ。
 15人ほどの客が乗り、ワゴン車は満席になった。しかし、まだ出発する気配はない。
 それまで辛抱強く待っていたベトナム人たちも、運転手や車掌の兄ちゃんたちに 「早く出発しろ」 みたいなことを口々に言い始めた。
 車内はすでに満席なのに、さらに一人でも多くの客を乗せたいがために出発を待っているようだ。

 乗車から40分が経過し、やっと車はバスターミナルを離れた。
 しかし、大通りを進むワゴン車は異様なほどに速度が遅い。
 それは、全開にした扉から車掌が大きく身を乗り出して乗客を募っているからだ。
 その熱心な呼び掛けに応えるかのように、大通りにたたずんでいた人が少しずつ狭いワゴン車に乗り込んできた。
 いつしか車内は身動きがとれないほどの満員状態になった。
 数えてみたら、21人も乗っている。明らかに乗車定員オーバーだ。
 身動きがとれずに苦しい…

 ここまでいっぱいに客を乗せて、ワゴン車はやっと軽快に速度を上げていった。
 いや、軽快な<Xピードだったのはほんの瞬間で、すぐにその速度は恐怖≠フ領域に達した。
 飛ばす、飛ばす。 とにかく飛ばす。
 バイクの波を蹴散らして、さらには対向車までも蹴散らして飛ばす。
 これまでの自分の経験の中では、パキスタンでのバスの次に怖い運転だ。
 しかし人間とはよくできたもので、すぐにこの状況にも慣れてしまい、いつしかウトウト…



地ビール



 途中で30分の昼食休憩を挟みながら疾走したワゴン車は、ガイドブックに載っていた所要時間よりも1時間も早く、カントーの町へ渡るフェリー乗り場に到着した。
 道路にはフェリーの乗船を待つ車が長い列をつくっていた。
 車掌の兄ちゃんがワゴン車の扉を開けると、半分以上の乗客は荷物を持って降りてしまった。
 降り際に兄ちゃんからフェリーのチケットを受け取っている。
 ジェスチャーでの会話によると、このフェリーで川を越えた所がバスの終点らしい。しかし、このままバスに乗って川を渡ると時間がかかるので、多くの客たちは歩いてフェリーに乗るのだそうだ。
 「お前はどうする?」
 と兄ちゃんに訊かれたが、はてさて一体どうしたものか…
 判断に困っていると、ワゴン車の窓がノックされた。
 窓の外にはバイクタクシーのお姉さんがにこやかな顔をして立っていた。
 そして、話し慣れた英語でこう言った。
 「ホテルはどこ? 2千ベトナムドン (約15円) で送るわよ」
 ベトナムのバスターミナルは、そのほとんどが町の中心から外れた場所にある。
 カントーも例外ではなく、バスターミナルまで行ったところでバイクタクシーに乗ってホテルまで移動しなくてはならないのだ。
 「OK! OK!」
 言い値は破格の金額なので、二つ返事でお姉さんのバイクにまたがる。

 バイクは渋滞の横をすり抜け、すぐにフェリーに乗船できた。
 茶色の水が渦を作って流れる川を、たくさんの車と人を乗せたフェリーは鈍い金属音を出しながら進んで行く。
 重油と排気ガスの臭いが充満しているデッキのフェンスに体を預け、川を流れる風を体いっぱいに受け止める。
 「ホテルはどこ?」
 自分の隣でフェンスに寄り掛かっているお姉さんが訊いてきた。
 「まだ決めてないけど… どこか、川の眺めが素晴らしいホテルを知らない?」
 「それなら、ちょっと高いけど素晴らしいホテルを紹介するわ」
 「高すぎるのはダメだよ」
 「ノープロブレムよ!」
 とりあえずお姉さんの勧めに従って、そのホテルに行くことにした。
 
 カントーの町はそれほど大きくない。
 町の中心だと言う場所までは、ほんの5分ほどで着いた。
 その近く、川辺に立派な建物のホテルがあった。
 お姉さんの後ろに付いてフロントへ向かう。
 宿泊料はそれなりにするが、部屋を下見して一発で気に入った。
 大きな窓の向こうにはカントー川が雄大に流れていたのだ。
 これなら窓の外を眺めているだけでも退屈しない。

 1階にあるレストランでバイクタクシーのお姉さんと商談を始めた。
 フェリーに乗っているときに、彼女がツアーなどの手配ができることを知ったからだ。
 メコンデルタ地帯での楽しみは、ボートツアーをおいて他には無い。
 既存のツアーに参加して周遊するのもひとつの方法だが、今回の旅の目的はメコンデルタの人々をカメラに収めること。それを考えると、ここは舟をチャーターせねば。
 お姉さんと交渉の末、明日の丸一日、舟をチャーターすることにした。
 
 カントー川のほとりには近代的な公園があり、その中心部に川を眺めながら食事のできるレストランがあった。
 オープンエアーの店内は天井が高く、広々としてとても開放的だった。
 昼は客がほとんど居なく、のんびりと雑談をしている若いウエイターやウエイトレスたちは英語がかなり達者だった。
 「サイゴンビールちょうだい」
 「ごめんなさい! サイゴンビールはありません。ここはカントーだから、カントービールならありますよ。」
 「お〜っ! カントービール、いいね〜 じゃ、それちょうだい」
 サイゴンビールよりもさらにコクのあるカントービールは、蒸し暑いベトナムで乾き切った喉を潤すには最高の一杯だ。



小舟に揺られて路地裏散策



 ビールを楽しみながら食事をしていると、おばちゃんが操る小舟が川岸にやってきた。
 そして「ボートツアー、ボートツアー」と言いながら、ジェスチャーで 「乗らないか?」 としきりに誘っている。
 「モッティエン、ティンティエン?」 (1時間いくら?)
 と質問をすると、おばちゃんは自分のポケットからボロボロになった1万ドン札を2枚取り出し、それを大空高くかざした。
 「OK!OK! じゃ、モッティエン (1時間) よろしく!」
 と即決。
 レストランの精算を済ませ、そのままおばちゃんの小舟に乗り込んだ。
 このおばちゃんの本業はボートツアーではなく、この辺りではタクシーのように利用されている小舟の船頭だった。
 櫂をクロスさせる漕ぎ方はベトナムの舟の特徴で、それはとても興味深い光景だった。
 舟は波立つカントー川を木の葉のように揺られながら上流へと進む。
 川には物資を満載した多くの船が行き交い、停泊している船では人々が生活をしていた。
 船上で洗濯物を干し、川の水を汲んで洗面や調理に利用し、子どもたちはドロ水の川に潜って遊ぶ。
 生活のすべてがこの川と共におこなわれていた。
 そんな風景を興味深く眺めながら進んで行くと、ほとんどの人々はこちらに気付いて 「ハロー」 と手を振ってくれた。
 その満面の笑顔からは、彼らの心の豊かさが感じとれた。
 カメラを指差し 「撮っていいか?」 とジェスチャーをすれば、はにかみながらもポーズをとってくれる。
 中には 「自分も撮って〜」 とアピールする人もいた。
 デジタルカメラなので、その場で撮った写真を見せてあげたいが、船越しなのでそれもできない。
 でも彼らは撮られたことに満足しているようだった。
 望遠レンズで遠くの船を狙っても視力のいい彼らはこちらにすぐに気付き、にこやかに手を振ってくれる。
 ファインダー越しのこちらは一瞬ドキッとするが、好意的な彼らの表情にこちらも手を振りながらシャッターを切った。
 小舟で漁をする男たちは本日の収穫を誇らしげにかざし、赤ん坊を抱えた女たちは我が子を自慢げに見せる。
 水面から突然に顔を出す子どもたちは、自分の泳ぎを見せたがる。
 
 約束の1時間なんてすぐに過ぎてしまった。
 船頭のおばちゃんのお勧めもあり、時間を延長して対岸に毛細血管のように狭く複雑に入り組んだ水路を進むことにした。
 川にせり出した家と家の隙間に、流れのほとんど無い静かな水路が奥へと延びていた。
 ここは水路と言うよりも、洪水で水没した町と言った感じだ。
 大きく開け放たれた扉や窓からは、人々の生活を目の当たりに覗くことができた。
 そしてこちらが外国人だと気付くと、「ハロー!」 と手を振ってきた。
 岸辺でくつろいでいる人々も、とても好意的に手を振ってくれる。
 こちらもそれに応えて手を振り返す。
 地元の人々とのこんな他愛も無い交流だが、これが旅の中では最高に心に残るひとときだ。
 対向の舟とぶつかり合いながら、そして低い橋では頭をかがめ、迷路のような水路を進んだ舟は再びカントー川の大きな流れに出た。
 
 約2時間の周遊を終え、カントー川に傾いた大きな夕陽を眺めながら、先ほどのレストランにておばちゃんと別れた。

(第一章 終)



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