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めこん・風の物語  (第二章・えっ! 船は3日後?

小舟に揺られて国境越え


 メコンの朝はとても静かだった。
 時折通る小舟のモーター音が響くだけで、それ以外の音はほとんど聞こえてこなかった。
 ゲストハウスの食堂にてビザ発給をボ〜ッと待つ。
 読書をしたり、ゴロゴロと横になったりしてひたすら発給を待つ。
 
 予定の11時が過ぎた。
 宿のおばちゃんが旅行社に電話をしてくれたが、ラオス政府からまだ返事がきていないそうだ。
 「この時期はラオスへ渡る人が少ないので、発給が遅れているのよ」
 と説明してくれた。
 (空いていれば逆に早く発給されるんじゃないの?)
 アジアの旅では時間どおりにいかないのが常である。
 今日中にビザが手に入ればいいやと、半ば開き直りの気持ちで待ち続ける。
 
 正午になって、太目のおばちゃんがゲストハウスにやって来た。
 「ラオスに行くよ」
 豪快に言い放ったそのおばちゃんは、ビザを手配した旅行社の方だった。
 川口さんに別れを告げ、太目のおばちゃんのスーパーカブに二人乗りをして国境に向う。
 太目のおばちゃんはバイクの運転も豪快で、路地裏から表通りに出る時なんぞは、一旦停止はおろかスピードも落とさずに飛び出すのであった。
 
 町外れの川岸にタイのイミグレーションがあった。
 太目のおばちゃんにパスポートを渡すと、代わりにクチャクチャになったラオスの出入国カードをエプロンのポケットから取り出した。
 「これに記入しておくのよ。それと、あんたと一緒にラオスに向かう人たちよ」
 と、先客であるオーストラリア人カップルを紹介したのち、イミグレーションへ姿を消してしまった。
 「ペンを貸すよ」
 豪州カップルの彼氏はとても親切だった。
 早速、出入国カードに記入をしながら、豪州カップルと今後の予定について話し合う。
 「君のラオスでの予定は?」
 「ルアンパバン、ヴィエンチャンと巡るけど、お二人は?」
 「同じだよ」
 「フエサイには滞在するのかい?」
 「できることなら、今日中にパクベンまで行くつもりだけど」
 「そうか、なら一緒に船で川を下ろうよ」
 旅は道連れ。一人より複数のほうが心強い。たとえ言葉の通じにくい異国の人であろうとも。
 
 10分くらい待っていると、太目のおばちゃんが戻って来てパスポートが返された。
 スタンプを見ると、タイ出国手続きが完了していた。
 「さっ、荷物を持ってついてきなさい!」
 おばちゃんは元気よく号令をかけると、川への急坂をどんどんと下りて行く。
 我々は慌ててリュックを背負うと、おばちゃんに離れぬよう急ぎ足であとについた。
 
 川岸には細長い小舟がたくさん停泊しており、その中の一台に乗り込む。
 「あなたはココに座りなさい。そして、あなたはそこに…」
 と、太目のおばちゃんはテキパキと舟の座る場所まで指図した。
 そして腰をおろすとすぐに、
 「1人20バーツ (約60円) 払ってちょうだい。でなければ舟は動かないわよ」
 と次の号令がかかり、我々は渡し賃を船頭に支払う。
 
 ゆっくりと漕ぎ出した小舟は急流ゆえに下流に押し流されながらも、ラオスに向けて少しづつ進んで行った。
 川の水を手ですくってみる。
 見た目と変わらないドロ水ではあったが、初めてメコンの水に触れた感動が心に焼き付いた。
 それは国境の川という特別なものであるのと、グラビアで見てからずっと憧れていた川であるからだ。
 その水をまさに今、自分の手ですくっているのだから何とも不思議な気持ちである。
 
 ものの5分ほどでラオス側に到着した。
 「初めて印す、ラオスの第一歩!」
 と、一人で感動的なシチュエーションに浸っていたが、
 「さっ、パスポートを出してちょうだい! 次に1人45$ (約5,400円) よ」
 これを毎日の仕事にしているおばちゃんにとって、越境の感動など関係の無いことであった。
 
 ラオスの入国手続きもあっと言う間に終了し、
 「ラオキップ (ラオスの通貨) に両替するなら、そっちの窓口。それとルアンパバンへの船は、ずっと左に行った所よ」
 太目のおばちゃんはテンポ良く説明する。
 「他に何か質問は?」
 「…」
 急には質問も出てこない。
 すると間髪入れずに、
 「じゃあ、私は帰るから」
 と、さっさと小舟でタイに帰ってしまった。
 
 取り残された我々3人はしばらくの間、呆気にとられておばちゃんの後姿を黙って見送っていた。



アイ・アム・ア・リッチマン


 我に返った自分たちが先ずやらなくてはならないこと ―― それは両替である。
 取り敢えず4〜5日分の両替をしようと思い、公認両替所の窓口のおネェちゃんに3,000バーツ (約9,000円) を差し出す。
 彼女はその金を握り締めると、
 「裏手のテラスで待っててね」
 と言い残し、どこかへ立ち去ってしまった。
 引換証も預り証も無く少々不安になったが、指示どおりテーブルで待つ。
 
 しばらくして、おネェちゃんがどこからともなくコンビニのビニール袋を手に戻って来た。
 そして、そのビニール袋から無造作に札束を取り出し、目の前に並べる。
 「さぁ、確認して下さい」
 と言いながら、大きな電卓を差し出す。
 数えてみると、500キップ札と1,000キップ札で61,500キップあった。
 「随分たくさんの札束になっちゃうんだね」
 と苦笑すると、おネェちゃんはさらに袋から札束を取り出して並べ始める。
 見る見るうちに、高さ15センチほどの札束の山ができあがった。
 電卓とメモ書きで説明をしてくれた。それによると、最初の札束は端数≠ネのだそうだ。
 1,000キップ札と2,000キップ札で出来あがった札束は、合計で761,500キップ。
 流石に一枚一枚を数える気にはなれない。
 これを隣で見ていた豪州カップルは、
 「ユー アー リッチ マン!」
 と、腹を抱えて大笑いしている。
 確かにこの国は物価がとても安く、この1回の両替だけで出国する時には金が余るほどであった。
 ラオスでの貨幣価値は日々下落しており、1999年2月に 『1$=4,300キップ』 だったものが、この時点 (1999年7月) で 『1$=10,000キップ』 。
 わずか4ヶ月で半分以下に暴落してしまったのだ。
 豪州カップルは100$を両替する予定であったが、これを見て急遽、30$に額を落とした。
 
 不用心だが仕方なく、札束を無造作にリュックに押し込み、3人でイミグレーションを後にする。



スローボート乗り場にて


 川から急斜面の石段を登っていくと、町の中心だった。
 太目のおばちゃんが言うには、ここから船着場まで1キロもあるそうだ。
 トゥクトゥクが数台ヒマそうに油を売っていた。
 タイの場合、このような状況では必ずトゥクトゥクの客引き攻撃に遭うものだが、ラオスの場合はまったく違っていた。
 我々に気が付いても声すら掛けてこないのである。
 「我々は船着場まで行きたいんだけど…」
 とこちらから投げかけてみた。すると、
 「この道を真っ直ぐ、1キロ先にある」
 と、指を差して道順を教えてくれた。思わず豪州カップルと顔を見合わせ、
 「歩いて行こう!」
 と合図。
 ヤシの木が生い茂る一本道をテクテクと歩き始めた。
 
 このフエサイから隣町まで行く交通機関は2種類しかない。
 1つは1日1便の軽飛行機。
 だがこれは、我々のようなバックパッカーには無縁の代物だ。
 残る1つはメコン川を下る船。
 この船で目的のルアンパバンまでは、運が良ければ2日、運が悪いと4日もかかるそうである。
 夜は航行できないので、運が良ければ屋根のある民家、運が悪ければ野宿を余儀なくされる。
 すべては運が支配している交通機関である。
 我々の予定はこうである。
 この船を利用して今日中にフエサイを出発、途中のパクベン村で1泊してから翌日に改めて船で下ろうという算段である。
 
 15分ほど歩くと船着場らしい所に到着する。
 難民船のような木造の大型ボロ船が、数隻停泊していたのですぐに判った。
 船の上では全裸のお兄ちゃんが水浴びをしていた。
 「パクベンへ行きたいんだけど…」
 とラオ語で尋ねる。
 しかし、兄ちゃんは下流を指差して手で大きくバツ印しを出した。
 それが何を意味するのか我々には理解できず、再度おなじことを尋ねるが答えは一緒だった。
 近くの茶店にいた別のおじさんに同じことを尋ねる。
 「今日の、船は、もう、出て、行った。次は、3日後だ」
 と、ブツ切れになる英語で教えてくれた。
 「ゲッ!3日後? どうする?」
 と豪州カップルを見やる。
 「交渉しよう」
 「何を?」
 「決まってるだろう、今から船を出してもらうのさ」
 「それは無理じゃないか?」
 こちらの返答を最後まで聞かず、豪州カップルの彼氏は船上のお兄ちゃんたちに船を出すよう交渉を始めた。
 しかし、どのお兄ちゃんも首を横に振るだけだ。
 「あきらめてホテルを探しに町に戻らないか?」
 と豪州カップルを促すが、まだ彼らは諦めなかった。
 「ならば、出航日まで船に泊めてもらおう」
 何とも大胆で図々しい発想だ。
 彼らにこれ以上付き合うのはやめにしよう。
 
 一隻一隻に交渉を始めたタフな二人に別れを告げ、来た道をひとりでトボトボと引き返す。
 実はこの船がダメでも、もうひとつ方法はあるのだ。
 それはチャーター船 (モーターボート) である。
 一人では高くついてしまうが、船着場で待っていればそのうちに人数が揃い、定期船の倍額程度の運賃で乗れることができる。
 しかもチャーター船は早い。
 ルアンパバンまで1日で行くことができるそうだ。
 定期船をスローボート≠ニ呼ぶのに対し、チャーター船はスピードボート≠ニ呼ばれている。
 取り敢えず明朝、スピードボート乗り場まで行ってみることにし、今日はこの町で1泊する。
 
 ギラギラした太陽に照り付けられながら、やっとのことで戻った町の中心に3階建てのホテルがあった。
 『タヴィーシンホテル』 と書かれた看板をくぐり中へ入る。
 部屋は狭くて天井のファンがカラカラとうるさかったが、小奇麗なホテルであったし、1泊54,000キップ (約600円) と安かった。よって今日の寝床をここに確保する。
 
 町の散策の途中で、偶然にも豪州カップルと再会した。
 「1等キャビンは予約できたかい?」
 と尋ねる。
 「いや、君と同じ運命さ」
 案の定、交渉は無駄だったようだ。



赤十字一行との出会い


 午後の陽射しはさらに強くなり、外を歩いている人もほとんどいない。
 こんな時は昼寝に限る。
 
 陽が沈んでから、夕食をとりにホテルの前にある食堂に出掛けた。
 街灯が無く夜には真っ暗になってしまうこの町で、食堂の灯かりだけが唯一、人々の生活を感じられる場所でもある。
 しばらくすると、少し離れたテーブルで食事をしていた男たちの一人が声を掛けてきた。
 「こんばんは。同じホテルですよね」
 なんと、日本人である。
 4人いる中で2人が日本人だったのだ。
 彼らは赤十字の方々で、ラオスで血液センターの事業を展開するためにやって来たと言う。
 声を掛けてきたのは日本赤十字の徳永さん。
 これから6ヶ月間ラオスに滞在して事業にあたるとのことで、奥様と一緒にヴィエンチャンに住んでいる。
 もう一人の日本人は松田さん。
 徳永さんの前任者として、やはり6ヶ月間ラオスで暮らしてきた。
 この引継ぎが終了する1週間後の帰国を心待ちにしていた。
 残りの2人はラオス赤十字の方々で、物静かでやさしい所長のティーさん、そして英語が堪能でひょうきんなチャンタラさんだ。
 二人とも日本赤十字の研修で、東京に2ヶ月ほど滞在したことがある。

 徳永さんにここで足止めを食らいそうなことを話すと、
 「我々も明日チャーター船でルアンパバンまで向うから、良かったら一緒に行かない?」
 と嬉しいお誘いがあった。
 『渡りに船』 とは、まさにこの事である。

(第二章 終)



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