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マグレブの夜明け  (第一章・霧のカサブランカ)

なぜかモロッコ



 幾千もの星たちが夜空一面を覆っていた。
 これほどまでにたくさんの星を眺めたのは、いったい何年ぶりだろうか? いや、今までの人生の中であっただろうか。
 一年の終わりがあと数時間でやって来ようとしている時、降るような星空をラクダの背中に乗って眺めていた。
 恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込んでいた。
 聞こえてくるのは砂を蹴るラクダの足音だけだ。
 首が痛くなるほどに空を見上げ続けた。
 英語でミルキィーウエーとは良く言い表したもので、まさにミルクを流したような天の川が左右に長く横たわっている。
 一筋の光の尾を引いた流れ星も時々見ることができる。
 古代から数多くの星座の物語が生まれた理由も、この満天の星空を眺めれば一目瞭然だ。
 日本では決して味わうことのできないこのシチュエーションの中で、涙が出そうになるほどの感動に浸っていた。
 それなのに、
 「紅白はどっちが勝ったかな? レコ大はやっぱ浜崎かな?」
 桑ノ助よ頼む! 野暮なことは聞かないでくれ。


 その昔、我が国日本は 「日出ずる国」 と自らを称し、近隣諸国からヒンシュクをかった歴史がある。
 そんな日本とは対照的に、今の現代において自らを 「陽の沈む地 = マグレブ」 と呼んでいる国々がある。
 それが北西アフリカに位置する、モロッコ・アルジェリア・チュニジアの三カ国だ。
 その三カ国の中でも一番西にあるモロッコで2003年の正月を迎えることにした。

 今回の旅には同行者がいる。
 『桑ノ助』 ―― ♂ 同じ職場で働く同僚である。
 今まで知らなかったが、サッちゃんの様にバナナが大好き。
 この旅でも路上に出された果物を売る屋台を見つけるたびに、バナナを1本単位で買い込んでいた。
 そして彼もまた物好きな… もとい、飽く事のない探求心と好奇心を持ち続けたバックパッカーである。
 そんな二人の旅に綿密な計画など存在しない。
 そもそもモロッコを訪れる確たる理由すら無いのだ。
 「モロッコって良い所らしいよ〜」
 「何がいいの?」
 「知らねぇ」
 「ふぅ〜ん、じゃあ行ってみる?」
 「うん!」
 と言った調子で、それがアフリカのどこかの国であることと、性転換手術で有名なことくらいの知識しか持っていなかったが、すぐに航空券の手配をすることにした。
 日程についても、「この程度なら連続して有給休暇を使っても許されるだろう…」 と判断した日数を設定し、その限られた期間の中で行き当たりばったりの旅をしようと言うのだ。

 一番の難関は我が妻である。
 「お正月に一人なんて絶対にイヤよ!」
 となかなか認めてくれなかったが、やがて正月に友達と台湾旅行に出掛けることが決まり、我が夫婦の危機は辛うじて回避された。
 台北が台湾の首都であることも知らない我が妻に、とても大きな不安を感じていたが、そこは友達にすべてを託すしかなかった。
 ショッピングや食事の楽しそうな写真が満載されたチャラチャラしたガイドブックを買い与え、旅行の意欲が失せないように気を遣う夫だった。

 我々の方はと言うと、その後の半年間、桑ノ助との打合せはまったく無いままに、出発の当日を迎えたのである。



サンタクロースのいる飛行機



 12月25日、クリスマス。
 昼に成田を飛び立ったエールフランス機は、一路パリを目指した。
 流石は欧州系の航空機だけあって、スチュワーデスがサンタクロースの赤い衣装に身を包んで乗務していた。
 機内は正月をフランスで過ごそうとする日本人旅行者で満席だ。
 彼らは皆一様に、ブランド物が掲載された煌びやかな雑誌のグラビアに目を通しながら、パリでの優雅なひとときに夢を膨らませていた。
 そんな金持ち旅行者を横目で見ながら、おやじパッカーの二人はモロッコのガイドブックを引っ張り出し、おおまかな旅行スケジュールを打ち合わすのであった。
 打合せが済んでしまうと、機内でやることは 「食べる事」 か 「眠る事」 しかなく、パリまでの12時間半をひたすらこの繰り返しで耐えた。

 西へ飛んでいるので時間の経過が遅く、雨のパリに到着したのは同じ日の夕方である。
 ここで入国する大半の乗客の流れから外れ、トランジット用のバスでターミナルを移動。
 さらにモロッコ行きの出発まで3時間半もの長い時間を、閑散とした待合室の椅子で過ごさなければならなかった。

 パリを夜9時に離陸。
 モロッコまでは3時間の所要時間だが、日本を出発してからすでに19時間も座りっぱなしなので、足もむくんで来ていた。

 機内アナウンスに促されるように窓の外を眺めると、雲の合間から港町・カサブランカの見事な夜景が目に飛び込んできた。
 言い古された台詞だが、宝石を散りばめたような夜景≠ニは、まさにこの事であろう。
 無数のオレンジの光が町の輪郭を飾り、建物も道路も光で描いた地図のようになっていた。
 そんな幻想的な景色を眺めながら、飛行機は最終着陸態勢をとってぐんぐんと高度を下げて行った。

 宝石の光が段々と大きくなるに従い、その光が除々に白い霧で見え隠れするようになってきた。
 「もうすぐ着陸か?」 と思われたところで、機体は大きく旋回をして急上昇した。
 しばらくの後に機内アナウンスがあったが、フランス語のみなので何を言っているのか分からない。
 サンタクロースのお姉さんが客席を巡回して何やら説明を繰り返しているが、一部の興奮した乗客の対応に追われ、フランス語の分からない外国人なんかを相手にしている暇は無いようだ。

 カサブランカ上空で幾度も旋回を繰り返した後、機体は再び下降を始めた。
 「霧が収まったようだね」
 「やれやれ…」
 こんな時は日本語の分かる同行者がいることが、何よりも心強い。 お互いに状況はまったく分かっていないが…

 真っ白な景色の中、突如として地面が見えた。
 相変わらずの濃霧の中、機体はゆっくりと滑走路を進んで停止した。
 機内がざわついているものの、無事に到着したようである。

 しかし、飛行機の扉がなかなか開かなかった。
 10分、20分、30分… 通路に立って降機を待っていた乗客たちも、苛立ちながら自分の席に戻り始めた。
 扉がやっと開いたのは、着陸してから40分も経ってからだった。
 タラップを降りると、そこはダダッ広い滑走路 (エプロン) の真ん中だった。
 ターミナルビルへのバスなどは用意されていなく、乗客たちは黙ったまま列を成して濃霧の中を歩いた。
 着いた先は ターミナルビル などと呼べるほどの立派な場所ではなく、小さなビルの小さな待合室だった。
 シャッターは降りているが、免税店や手荷物検査の機械などもひっそりと置かれている。
 すぐに乗客で満員となったこの待合室で、しばらく何か≠待つようだ。
 「ここカサブランカか?」
 不安そうに桑ノ助に小声で話す。
 「ちょっとチンケ過ぎるよなぁ…」
 確かにモロッコの表玄関にしては空港が瀟洒過ぎる。
 待合室には少人数ながらも日本人団体客がおり、ベテランそうな女性の添乗員もいた。
 彼女なら事情が分かりそうだ。
 「すみません、ここはどこですか? そして、我々はどうなるんでしょうか?…」
 「ここはラバトで、カサブランカから30キロの場所よ。カサブランカは濃霧になることが多いので、ここに到着地変更することが良くあるんですよ」
 「えっ、ラバト… じゃあカサブランカまでは行けないんですか? こんな時間じゃ列車やバスも無いですよね…」
 「いつもならここで入国審査を済ませ、カサブランカまでの送迎バスが用意されているんだけど… 今回は何も説明が無いから私にも分かりません…」
 今後の我々がどうなるのか、ベテラン添乗員さんも不安そうだった。
 彼ら一行は駆け足でモロッコを周遊し、その後にスペイン、フランスと移動するとのことで、スケジュールに全く余裕が無いそうだ。
 「旅にトラブルは付き物。自由旅行で良かったねぇ〜。楽しい想い出になるさ」
 桑ノ助はすっかり落着き払い、この状況を楽しんでいた。

 座ることもできない狭い待合室でしばらく待つ。
 やがて乗客たちがゾロゾロと移動を開始した。どうやら別の建物で入国審査が始まったようだ。
人々の流れに従い、小さなイミグレーションで入国審査の順番を待つ。
 入国審査官はゆっくりと一人づつのパスポートを眺め、何事かを話しかけながらパソコンのキーをこれまたゆっくり叩く。
 これではなかなか順番もやって来ない。
 ベトナムや中国、ミャンマーでさえも出入国の手続きはもっと手際良い。
 スタンプを押すのも然りで、ページをパラパラと開きながら管理官の気に入った場所にゆっくりとゴム印を押し当てる。
 それなのに、押された印影は読み取れないほどに薄かった。
 桑ノ助が本で調べたところ、イスラムの教えでは 「急ぐ事は悪魔の仕業」 とされている。
 だから周囲の状況に関係無く、ゆっくりとマイペースで仕事をしているようだ。

 荷物を受け取り、閑散としたロビーに出ると大型バスが待機していた。これに乗り込んでカサブランカへ戻る。



ホームレスとホテル



 濃霧の中を走り続けること約1時間。
 高級ホテルであるシェラトン・カサブランカに到着した。バスはここが終着とのことだ。
 ここは街の中心地になるのだが、このホテルの周囲には人はおろか、車も走っていなかった。
 時刻は午前3時。 もうすぐ朝になろうとする時間だ。
 このままどこかの公園で夜明けを待っても良かったが、長時間のフライトに体も疲れ切っており、仮眠でも良いから手足を思い切り伸ばして眠りたかった。

 地図を頼りに安ホテルの集中している場所へ移動する。
 すぐに幾つかの安ホテルが見つかったが、そのどれもが灯りを消しており、正面玄関にはしっかりと鍵がかけられていた。
 ノックをしてみるが反応が無い。

 仕方なくさらに別のホテルへ向って歩いていると、後ろの方から我々を呼ぶ声がした。
 振り向くと、ホームレスの男性が
 「ホテルを探しているのか?」
 と英語で話しかけてきた。
 「自分たちで行ける」
 と断ったが、ホームレスの男性は
 「ついて来い。心配するな」
 と、先頭に立って次のホテルへ案内を始めてしまった。
 「これはチップを要求されるそうだね」
 「でも、デュラハムは持ってないしね・・・」
 空港に到着した時は銀行も閉まっていて、モロッコの通貨である 『デュラハム (dh) 』 をまったく持っていなかったのだ。

 勝手に案内された次のホテルも灯りが消されており、中には人の気配がなかった。
 しかし、ホームレスの男性はドンドンと激しく扉を叩き続け、アラビア語で何かを叫んだ。
 しばらくするとフロントの灯りが点き、背広を着た老紳士がやってきた。
 ホームレスの男性を見て怪訝そうな顔をしたが、後ろにいた我々を見つけるとすぐに鍵を開けて中へ招き入れてくれた。
 「チップ、チップ!」
 ホームレスの男性も中へ入ろうとしたが老紳士に制止され、玄関口で我々に向かってそう叫んだ。
 「ごめん! デュラハムをまったく持っていないんだ」
 こちらの事情を彼に話して謝った。
 なおもしつこく「チップ」と叫ぶ彼は、さらにやって来たもう一人のホテルマンに冷たく追い返されてしまった。
 彼には少々悪いことをした。

 3人が乗ったら満員になってしまう骨董品のエレベーターに乗り、4階の部屋に荷物を置いたのは時計の針がすでに3時半を過ぎた頃だった。

(第一章 終)



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