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石畳が光るまで  (第一章・昆明へ)

 
両替された紙幣をその場で数えていると、ガラス越しに彼女が身を乗り出して小声でこう言った。
 「現地ではニセ札に注意して下さいね」
 「へっ、ニセ札?」
 「油断しているとすり替えられてしまいますから、充分にご注意を!」
 成田空港にある京葉銀行の両替窓口では、女性行員が心配そうに偽札すり替えの実例をいくつか挙げて注意を喚起してくれた。
 「そんなにニセ札が出回っているの?」
 「はい。中国元は多いですから」
 よし、気を引き締めて中国・雲南省の旅に出発だ〜!



ピースサイン



 高度を下げてきた飛行機は黒雲の中に突入した。
 機体がガタガタと大きく揺れ、雨粒が窓ガラスに激しく打ち付けられた。
 ほどなくして雨雲を抜けると、昆明国際空港の長い滑走路が眼下に広がった。

 今朝ほどまでいた香港は快晴で蒸し暑く、Tシャツ1枚でも汗ばんでしまったのに、飛行機で3時間半ほど飛んできた昆明は肌寒く、おまけに激しい雷雨が降っていた。
 腕まくりをしていたシャツの袖を下ろしながら、小さくて薄暗い入国審査場にできた長蛇の列に並ぶ。
 今回の旅は出入国手続きの連続だ。
 昆明までは香港経由でやってきたので、成田で出国手続き、香港で入国・出国手続き、そして昆明で入国手続きをおこなわなくてはならない。
 帰路もこの逆なので、出入国審査を8回も受けなくてはならなかった。
 ちなみに、香港も昆明も同じ中国だが、香港が特別行政区に指定されているために出入国の手続きが必要なのだ。

 昆明での中国への入国審査は事務的に淡々と行なわれていた。
 アメリカの係官のように 「ハ〜イ!」 とか 「ハロー」 などという陽気な挨拶はなく、深緑色のいかつい制服に身を包んだ男女の係官が、ただ黙々と事務作業をこなしていた。
 こちらも余計なことは一言も口にせず、差し出したパスポートが無造作に投げ返されるのをただひたすら待つだけだ。
 旅を始めた頃は、
 「命の次に大切なパスポートを投げて返すなよな!」
 と、腹の中で怒りつつ係官を睨み返したりしたものだが、最近では投げ返そうが何しようが、いちゃもんを付けずに出入国の手続きをしてくれるのならそれで良し、と考えるようになった。
 案の定、昆明国際空港でもパスポートは投げて返してきたが、入国カードに適当に書いたホテル名を疑われることもなく、無事に入国は果たせた。

 昆明空港はその大半が国内線用に利用されているので、国際線ロビーは極めて小さいもので、荷物受取りのベルトコンベアも短い物が2本あるだけだ。
 しかも、到着便名の表示が間違えている (差替えていない) ので、自分の荷物がどちらのコンベアから流れてくるのかまったく分からなかった。
 それでも乗客たちは文句も言わず、自分の荷物を求めて2本のベルトコンベア間を行ったり来たりしていた。

 税関審査はフリーパスで、薄暗くて寂しいターミナルビルのロビーにすぐに出られた。
 ロビーでは客引きと思しき女性がしつこく話しかけてきた。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠…」
 「ごめんね、中国語は分からないよ。 I am Japanese.」
 そう答えても彼女は動じることなく、中国語で話し続けた。
 『せめて片言の英語で話してくれよ』 と思いながら、一方的に話し続ける彼女を従えてビルの外へと向かう。
 昆明国際空港は市街地の近くにあるので、エアポートバスのようなものは無く、路線バスかタクシーを利用することになる。
 雷雨は一向に止む気配はなく、むしろ先ほどよりも雨脚が強まっている。
 「こりゃタクシーだな…」
 ぽつりと独り言をつぶやくと、客引きの彼女は人差し指を真っ直ぐに突き出し、タクシー乗り場を教えてくれた。
 「タクシー≠セけは通じたのね…」

 空港から街の中心地までは15分ほどだった。
 タクシーに乗り込む時、旅行ガイドブックのコピーを運転手に見せてホテルを確認したのだが、連れて行かれた場所はまったく別のホテルだった。
 これは、運転手がバックマージンを欲しくて別のホテルへ連れて行ったわけではなく、日本語表記でホテル名が書かれていたために運転手が勘違いをしたのだった。
 改めて中国語表記でホテル名を書くと、
 「おー、うぇいうぇい!」
 とか何とか言って、2ブロックほど隣にある目的のホテルに運んでくれた。

 ホテルのロビーに入ると、すぐに奥の方から一人のお兄ちゃんが駆け寄って来た。
 「☆▲∞£#☆○§◇∋◆∠…」
 一方的に中国語で何かを話しかけ、自分の携帯電話をこちらに差し出した。
 差し出されるままに電話に出ると、
 「こんにちわ。雲南旅行の毛です。お疲れさまでした!」
 電話の相手は、今回の旅で国内線とホテルの予約をお願いしていた雲南旅行の毛さんだった。
 航空券もホテルも現地で確保しようと思っていたが、インターネットにあったこの旅行社で、安く航空券とホテルを手配できることを知り、日本語のできる社員の毛さんとメールでコンタクトをとっていたのだ。
 「毛さん、こんにちわ。お世話になります」
 「私がお出迎えに行く予定でしたが、都合が悪くなりました。すみません。そこの彼がすべてやりますが、中国語しか話せませんので、困ったことがあったら私に電話下さい」
 毛さんの携帯電話番号は事前に教えてもらっており、この雲南省で困ったことがあったらすぐに電話してくれと言われていたのだった。
 「頼りにしてます。よろしくお願いしますね」
 
 お兄ちゃんに促されるまま、まずはホテルのチェックインだ。
 ホテルはシティーホテルに分類されるもので、フロントの服務員はきちんとした制服を着てテキパキと働いていたが、英語がまったく通じなかった。
 しかし、ホテルのチェックインでやる作業と言えば万国共通で、パスポートを出してカードに名前や住所を書くだけだ。
 ひととおり記入が終わると、フロントの女性服務員がこちらに向かって何かを言いながらピースサインを出した。
 「へぇ、何、何???」
 隣にいる雲南旅行のお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんも同様にピースサインを出した。
 女性服務員とお兄ちゃんは2人がかりで何かを説明しながら、しきりにピースサインを出す。
 それが何を意味しているのか、こちらはまったく理解ができない。
 仕方なく、こちらもピースサインを出してニコッと笑ってみた。
 すると、2人もニコッと笑いピースサインをさらに前へ出す。
 こちらも引きつった笑顔でピースサインを前に出す。
 しばらくこのような繰り返しをした後に、呆れ顔のお兄ちゃんが毛さんに電話をかけた。
 「早速、お世話になっちゃいました〜」
 「ぽからさん、デポジットです。このホテルは200元のデポジットが必要なんです」
 「あ〜、デポジットね。200元ですか… それでピースサインなんですね」
 「支払ったら控えを失くさないで下さいね。チェックアウトの時にその控えを渡せばお金が返ってきますから」
 200元をフロント差し出すと、 「やっと理解したか…」 と苦笑しながらデポジットの預り証を手渡してくれた。
 
 その後、お兄ちゃんから麗江までの航空券を受け取り、フロントで別れた。
 
 一人で8階の部屋に入ると、室内もベットもグチャグチャになっていた。
 「なんじゃ、こりゃ?」
 そう思いながら重いバックパックを下ろしていると、すぐに客室係の若い女性が2人やってきた。
 客室係は雑談をしながら室内の清掃とベッドメイキングを開始した。
 時刻は午後4時。
 普通の客はチェックインを開始する時刻なのだから、部屋の掃除くらいは終わらせてからチェックインさせろよな…
 かつて旅した新疆・ウイグル自治区でもそうであった。
 疲れて辿り着いたホテルの部屋ですぐに横になることもできず、いつ来るのか分からない客室係を待つことは、腹立たしくも感じる。
 「それが中国なのだよ」
 と誰かに言われたこともあったが、どうにも理解ができない。
 清掃の邪魔にならないよう、部屋の隅でその作業を見守る。
 ほんの10分ほどですべての作業が完了し、最後にお湯の入った魔法瓶を置いて客室係は帰って行った。



オフ会 in 昆明



 この昆明では、HPのリンク友だちであるゴトヒロさんとオフ会をすることになっている。
 彼は今年の4月から中国語を学ぶために昆明で留学しているのだ。
 彼とは1年半前に東京で初めて会い、それ以来の再会である。
 雨はだいぶ小降りになっていた。
 待合せ場所はこのホテルから15分ほど歩いた場所にある、世紀広場という場所だ。
 大通りのいたるところに大きな水溜りができており、靴をびしょ濡れにしながら世紀広場を目指す。
 世紀広場は昆明の中心地にあり、おしゃれで近代的な商店が多数集まっているエリアだ。
 その世紀広場の代名詞にもなっている、『家来福(カルフール)』 というデパートの前で待合せることにしていた。
 
 「ゴトヒロさ〜ん、お久しぶりです!」
 午後6時過ぎ、家族連れでたいそう賑わうデパートの入口で、ゴトヒロさんと無事に落ち合うことができた。
 ゴトヒロさんは1年半前とまったく変わらぬ様子で、相変わらずのやさしい眼差しで微笑みかけていた。
 小雨の中、多くの食堂が入っているビルにある火鍋の店へ入る。
 この店は、ビルの中の通路にたくさんのテーブルを出している、境目の分かりにくい店だった。
 でも、なかなかの有名店らしく、この時間でも多くの客が鍋を囲みながら楽しそうに食事をしていた。
 中国語が読めも話しもできない自分は、オーダーのすべてをゴトヒロさんにお任せする。
 「ぽからさん、好き嫌いは?」
 「テーブル以外は何でも食えますよ」
 この店は、鍋の具を客が自らオーダーシートに記入して注文するシステムだった。
 「犬、食う?」
 「犬!? いや… それはちょっと遠慮したいですね…」
 これぞ中国! 犬が鍋の具として普通に列記されていた。
 しかし、中国本土に入国してまだ3時間弱… さすがに犬肉は遠慮をさせていただいた。
 
 ひととりのオーダーを終え、生温い地ビール『大理ビール』で再会を祝して乾杯。
 夜になって冷え込んできたので、鍋が全身を暖めてくれた。
 昆明で生活をして、学校が休みの日には麗江を始めてとして雲南省の各地へ旅をしているゴトヒロさん、そんな彼からは、これからの旅で貴重な生の情報をたくさんいただくことができた。
 旅先でいざという時に頼りにできる人がいることは、とても心強いことだ。
 尽きることのない近況報告と旅話し、もちろん、ニセ札の見分け方もしっかり伝授いただいた。
 「僕も1回だけ、ニセ札をつかまされたことがあるんですよ…」
 なんと、ゴトヒロさんもニサ札の被害に遭っていたのだった。
 本物と偽物の見分け方はいくつかあるのだが、もっとも分かりやすくて多くの方がやっているのが、毛沢東の肖像画の襟元を擦ってみる (100元札場合) 方法だ。
 本物はザラザラした感触があり、偽物はツルッとしているそうだ。
 旅行中はこの方法で受け取った金を確認したし、店の人もこの方法でこちらが差し出す札を確認していた。

 次から次へと空瓶になるビール。
 もちろんトイレも近くなる…
 トイレはビルで共有しているものを使うことになる。
 従業員通路のような廊下をしばらくいくと、トイレの入口にカウンターがあり、ここにいるおじさんに5角(約8円)を支払って中へ入る。
 有料トイレだ。
 しかし、中はお世辞にもきれいとは言えないもので、鼻を突く強烈なアンモニア臭が漂っていた。
 「こんなので金を取るのか!?」
 と、少々腹立たしくも感じる。
 しかも、ニーハオトイレ≠ナ、仕切りも扉もないトイレに、ケツを丸出しにしたおやじたちが見事に並んでいた。
 雲南省の省都と言えども、まだまだ伝統的な中国文化は残っていたのだった。


(第一章 終)



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