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回廊の女神たち  (第一章・ベトナムの洗礼)

いきなりそれはないだろう…


 「ふざけんなコノヤロウ! 何で初乗りが12ドル (約1,400円) もするんだよ!」
 「だから、メーターは高いと言ったろ」
 「12ドルじゃなくて、12,000ドン (約100円) だろ? メーターにそう書いてあんだろ!」
 「ノー、アメリカ・ドル!」
 いきなり喧嘩である。
 
 日本を発って2日目の午後。
 今回の旅の出発点である、ベトナムのホーチミン市 (サイゴン) にあるタンソンニャット国際空港に降り立った。
 社会主義国とあって入国審査では散々待たされたが、不備だらけの入国カードと税関申告書を提出しても何も言われることは無く、笑顔すらないがパスポートに入国スタンプを押してくれた。
 ホーチミン市はベトナム第二の都市で、日本からの直行便も就航している。
よって、空港にはそれなりの設備と規模を期待していたが、それはもろくも裏切られた。極めてチンケな、もとい、瀟洒な造りの空港で、その空港ビルも無駄なスペースのない機能的なものだった。
 「飛行機に乗り降りが出来ればそれで充分。他に何を求めるんだ?」 と確固たる自己主張をしている空港だった。
 
 空港ビルから一歩外へ出ると、そこは金網に仕切られた空間になっており、物凄い数の人々が金網に顔をくっ付け、目をギョロギョロさせながら到着客が出てくるのを待っていた。
 もちろん家族や友人を出迎える人々もいるし、ツアー客を待つ旅行社の方々もいるのだろうが、その大半はタクシーの客引きである。

 案の定、すぐに数人の男達に取り囲まれ、「タクシー、タクシー」 と連呼される。
 そして、その中のひとりの男と交渉をした。
 「市内まで10ドル (約1,200円) で行ってやるよ」
 「ダメだ。メーターを使わないのなら乗らない」
 ガイドブックによれば、市内までのタクシー料金はメーターを使えば5ドル (約600円) 程度の料金なのだが、大抵の客引きは、それを10ドル前後の法外な値段で吹っかけてくるのだ。
 このことも当初から予測済みだ。
 「OK。ならメーターで行く。 …でもこの時間は激しい渋滞だから、メーターで行くと高くなるぞ」
 「ノープロブレム! 今日は日曜日じゃないかよ。 そんなに混んでいるわけないだろう?」
 「OK、OK。メーターでな…」
 
 こんなやり取りをしながら、空港前に広がる駐車場をしばらく歩いた。
 低く垂れ込めた黒雲からは、ぽつりぽつりと大粒の雨が降り出してきた。
 
 「本当にメーターで良いのか? 後悔するぞ。じゃあ7ドル (約840円) にしてやるよ。格安だろ?」
 男はなおもしつこく粘る。
 「メーター≠チて言ってるだろう。7ドルだって高い!」
 
 少し行ったところに車は停車していた。
 男が運転手にベトナム語で何かを話すと、運転手はトランクとドアを開けた。
 リュックをトランクに入れ、後部座席に乗り込む。
 すると、すかさず運転手が
 「7ドル」
 と、男と同じことを言い放った。
 「7ドルなら他に乗る。トランクを開けてくれ!」
 あまりのしつこさにこう言って車を降りようとすると、運転手は慌てて、
 「OK、OK。メーターOK。」
 と、料金表示器のスイッチを押した。
 そこに表示された緑色のデジタル数字は 『12』 。
 表示窓の下部に 『×1,000 DON』 と表記されているので、これは12,000ドンのことである。
 それなのにいきなり、
 「これはアメリカ・ドルだ」
 と言われたのである。
 ボッたくるにもほどがある。100円のものが何で1,400円にもなってしまうんだ。

 運転手と口論し、車を降りて
 「トランクを開けろ!」
 と怒鳴っていると、先ほどの客引きが走り寄ってきた。
 「テメェー、約束が違うだろ! このボッタクリ野郎!」
 と掴みかかると、
 「わかった、わかった。交渉は決裂だ。せっかく親切に7ドルで乗せてやると言っているのに…」
 とトランクを開け、リュックを投げ捨てるように取り出した。
 それをひったくる様に受け取り、もと来た空港ビルへと踵を返す。

 まさにボッたくり天国・ベトナム。
 その洗礼を空港に着いて早々に受けてしまったのである。
 タクシーの場合は会社によって異なるが、かなりの確率でボッてくるそうである。
 自分の場合はまだ良い方で、12,000ドンが12,000円に変わることも頻繁にあるようだ。
 
 あっ、これはベトナムの名誉のために補足するが、その他の東南アジア諸国に比べてボッたくりが多いのであって、ベトナム国民の全員がボッタクリ商売をしている訳でない。
 事実、出国までの3日間でボッたくられた (と気が付いた) ことはこの時だけで、食堂でもお土産屋でもシクロ (リヤカー付き自転車) でも、すべて適正≠ニ思われる価格であった。
 お釣りをごまかされることもあったが、それは許容範囲の金額だ。
 しかし、それでもバックパッカー連中の中には、ベトナムに不信感を抱く者が多いことは否定できない…



捨てる神あれば拾う神あり


 さて、洗礼を受けて清い身体になった自分に、すぐに救世主が現れた。
 数メートルも歩かないうちに、誠実そうなお兄ちゃんの運転する新車のタクシーが横付けされた。
 「乗るか?」
 お兄ちゃんは運転席から半身を乗り出し、消極的な声でそう言った。
 「データム通りまでいくらくらいかかる?」
 「ン〜、4〜5ドルかな・・・」
 「メーターを使うよね?」
 「もちろん」
 と、大きく頷いてメーターを指差す。
 
 この兄ちゃんなら信用できると思い後部座席に乗り込もうとした矢先、先ほどのボッタクリ野郎どもがやって来た。
 そして、
 「そいつの車は新車だから、後で10ドル加算されるぞ!」
 と、車の窓越しに叫んだ。
 「ホント?」
 兄ちゃんに尋ねてみる。
 兄ちゃんは苦笑しながら首を横に振った。
 そして、ボッタクリ野郎どもを無視するかのように、
 「オンリー、メーター」
 と、静かに料金表示器を指差した。

 車は町の中心地であるデータム通りに向って走り始めた。
 あとは到着を待つのみであるが、ここで気を抜いてはいけない。
 チェック項目が2つ。
 メーターがちゃんと作動しているか? 道順は正しいか? これらを良く観察していなくてはならない。
 いくらメーターで行くと言っても、遠回りをされたり、異常に早く料金が変わる改造メーターだったら同じことである。
 幸いにもメーターは一定の間隔で一定の金額を刻んでいくし、道順も市内まではただひたすら真っ直ぐに進むだけなので、遠回りされる余地はなかった。
 
 ベトナムは路上を行くバイクの数が半端ではなかった。
 そのことは後述することとし、バイクの合間を縫って走ったタクシーは、データム通りの入口で停車した。
 ここまでの料金は45,000ドン (約390円)、米ドルに換算すると約3ドルだ。
 「兄ちゃん上出来! 釣りは取っておけ」



無認可ホテルの鈴木杏樹


 データム通りは、端から端まで歩いても5分とかからない短い通りなのだが、町のほぼ中心に位置し、安宿や安食堂が密集しているエリアなのである。
 本来この通りは全長600メートルほどあるのだが、貧乏旅行者の言うデータム通りとは、ファングーラオ通りとチャン・フン・ダオ通りに挟まれた300メートルほどの狭いエリアを指す。
 かつての安宿街はファングーラオ通りにあったのだが、再開発によって高級ホテルやオフィスビルの建設が始まり、バックパッカーの溜まり場がこの通りに移って来たのだ。

 タクシーを降りるや否や、ホテルの客引きが数人近寄って来た。
 「宿は決まっているのか? いい部屋あるぞ」
 と口々に捲くし立てた。
 しかし、ここでの宿にはアテがあった。
 データム通りの一本裏の狭い路地には、無認可ホテルが密集しているのだ。
 無認可ホテルとは正式な営業許可をとっていない宿なのだが、警察にはワイロをちゃんと (?) 支払っており、地元警察は完全にこの手の宿を把握しているらしい。
 無認可ホテルはその治安に若干の問題を残しているものの、口コミで広まっている情報を頼りに宿を選べば、正式なホテルよりも格安の料金できれいな部屋に寝ることができる。
 今回は、先日ベトナムから帰ってきたばかりのパッカーからメールで情報をもらったので、その宿に行ってみようと思っていたのだ。

 しつこい客引きに囲まれながら狭い路地へと入る。
 ここは大麻やヘロインの密売がおこなわれていることで有名な路地で、それなりの怪しい雰囲気もある。
 しかし、自分にはこれだけの用心棒 (客引き) がいるので心強い。
 まぁ、最近では公安の取り締まりが強化されたので、表立ったこれらの行為はされていないようだ。
 
 路地の両側には話しどおりに、小さいが小奇麗なゲストハウスや食堂がビッシリと軒を連ねていた。
 そして、お目当てのゲストハウスはその路地のほぼ中間地点に位置していた。
 「ここに泊まるから・・・」
 と言うと、客引きたちは諦めて散って行った。

 フロントにあたる小さな机には、中学生くらいの鈴木杏樹に似た少女が座っていた。
 このゲストハウスは華僑の家族が経営をしており、両親とおばあちゃん、そして3人兄弟の6人で切り盛りをしていた。
 杏樹は長女でやたらと英語が上手い。
 このゲストハウスの経営に関しては、両親よりも彼女が中心のようだ。
 「エアコン、トイレ、シャワーが付いて10ドルよ」
 「2泊するから安くならない?」
 「んじゃ、8ドル (約960円) でどうかしら? 部屋を見る?」
 と手馴れた様子で値切り交渉に応じ、裸足のままタカタカと階段を登って部屋を案内してくれた。

 部屋数は8室ほどの小さなゲストハウスだが、部屋の中はベッドが広くとても清潔に保たれていた。一目見て即決。すぐに荷を解く。



安全地帯・データム


 ホーチミン市を一人で静かに歩くことはできない。
 それは客引きがあまりにしつこいからである。
 物売りやバイクタクシー、シクロの連中が常に3〜4人は周囲を取り囲む。
 そして決まって口にするのは人差し指を一本立てて、
 「ワン・ダラー」
 である。物売りなら1個1ドル、バイクタクシーやシクロなら大抵は1時間1ドルらしい。
 シンプルで分かりやすいが、大雑把過ぎる。
 こちらがどんなに断っても、彼らは簡単には諦めない。
 「1ドル」
 「必要ない」
 「どこへ行く?」
 「すぐそこ。散歩しているだけだ」
 「1ドル」
 「・・・・」
 「明日はどうする?」
 「決めていないし、あんたには関係ない」
 「1ドル」
 これを延々とやられるのだ。
 物売りは天秤棒が重いので早足に歩くと諦めてくれるのだが、バイクタクシーはしぶとい。
 歩道だろうが公園だろうが、ブンブンとエンジンを鳴らしながらくっついてくるのだ。
 「一人で歩きたいんだからほっといてくれ! 仲間にもそう伝えておけ!」
 とキレることしばし。
 一人が諦めるとすぐに次の客引きがやってきて、一から同じことの繰り返しだ。
 彼らが生活に必死なのはよく分かるが、それにしても度を越えている。
 ゆっくりと町並みを眺めることすら許されないのだ。
 彼らの逞しさには閉口した。

 そんなホーチミン市にあって、(いや、そんなベトナム≠ノあって、という表現のほうが正しいかな?) 自分が泊まっているデータム通りだけは違っていた。
 この通りにたむろするバイクタクシーやシクロは、こちらと目が合っても黙って自分の車を指差し、「乗るか?」 と意思表示をするだけだ。
 こちらも顔の前で手を振り、「乗らない」 と返せばそれで終了である。
 土産物の店でも同様だ。
 呼び込みさえやっていないし、店に入って行っても声すら掛けてこない。
 客がいても全く動じずに椅子に座って本なんぞを読んでいるのだ。
 (ここはベトナムか?)
 と思わせるほどだ。
 金の無い貧乏旅行者が集まっているからなのか、それとも彼らにヤル気が無いだけなのか、いずれにしても他の場所から戻ってくるとホッとするエリアである。

 宿泊も安いしメシも安い。
 国際電話やEメールの店も数件あるし、頼れる旅行社もある。
 バイクタクシーやシクロも、ここから乗るとボられることはまず無い。
 彼らは漠然と 「1ドル」 などとは言わず、片道か往復かと訊いてくるのだ。
 シクロの場合、大抵の所なら片道1万ドン (約85円) で行ける。
 もちろん 「明日はどうする?」 などと訊いてくることも無い。
 
 そんなデータム通りは、夜が更けてくるほどその賑わいを見せる。
 通りに出されたテーブルに陣取り、行き交う人々の熱気やバイクの騒音に包まれて、ベトナム名物のスプリングロール (生春巻き) をつまみに、国産ビール 『333』 をぐっと飲む。

 いつまでも続く喧騒と熱気、そして騒音。
 ホーチミン市と呼ぶよりも、『サイゴン』 の地名がピッタリくると感じるのは自分だけだろうか・・・ などとほろ酔い気分で考えていると、
 「ナマ・ハルマキ」
 食堂の女の子が呪文のように唱えながら、お代わりを運んで来た。



バイタクのトンさん


 ベトナムはフランスの植民地であった。
 よってラオス同様にフランスパンがとても美味しい。
 朝の大通りにはサンドイッチの屋台が出ていた。
 風呂場で使うような小さなプラスチックの丸椅子に腰を掛け、オムレツパンを注文する。
 おばさんが手際良くフランスパンに切れ目を入れ、キュウリやパクチー (香草)、卵焼きを挟み、数種類の調味料をかけて出来上がりだ。
 一口かぶりつくと、半熟状態のオムレツからはトロリと黄味が滴り、それがシャキッとしたレタスやキュウリに絡まって行く。
 そして魚醤の旨味に合わせ、焼きたての柔らかなフランスパンとパクチーの香りが全体を包み込んでいる。
 その絶妙な組み合わせが、口のなかにフワッ〜と広がる。
 辛さや臭みが全く無く、これはヤミつきになる。
 しかも、20センチほどの大きさでたったの3千ドン (約25円) だ。
 さらに嬉しいことに、烏龍茶が飲み放題である。
 「うっ、うまい!」
 ベトナムの食事は何を食べても美味い。
 昨夜のスプリングロール (正確にはゴイ・クオンと言う) に、米麺のフォー、ベトナム式アイスコーヒー (カフェスアダー)、五目チャーハン (コム・チン・タップ・カム) ・・・ 食べた種類は少なかったが、ベトナム料理にはずれ≠ヘ無かった。
 ここは割り切って、最近注目を集めている雑貨の購入とグルメの旅に終始すれば、ベトナムは結構楽しい国なのかもしれない。
 
 サンドイッチを頬張っていると、バイクタクシーの客引きがやって来た。
 「観光するか?」
 「今、メシ食ってんだから、後にしてくれよ」
 そう言うと、彼はすぐに諦めて帰ろうとした。
 「あっ、ちょっと待って! 1日チャーターしたらいくら?」
 今日はホーチミン市の主要なところを観光する予定だったので、そのための足は必要だったのだ。
 「日本人か?」
 彼がそう訊ねるので、
 「ベトナム人に見えるか?」
 と切り返すと、
 「ちょっと待ってろ」
 と、どこかへ行ってしまった。
 
 しばらくして、他の男を連れて戻って来た。
 「ワタシ、ニホンゴ話せます」
 紹介されたのは、カタコトの日本語が話せるトンさんだった。
 行きたい所を告げて料金交渉をする。
 トンさんは誠実な人でボッたくるようなことは無かったので、すぐに商談は成立。
 
 スーパーカブに二人乗りをし、バイクの溢れる町中へと出掛けて行った。
 
 ベトナムに初めてやって来て、ベトナム戦争を避けて通るわけにはいかない。
 今日はホーチミン市内にある、これらの関連施設を巡る予定だ。
 ベトナムで激しい戦闘が始まったのは、自分がまだ幼かった頃だ。
 長きに渡る悲劇の中で自分も成長をし、ベトナム戦争の真実を知るようになる。
 日本国内でも反戦運動が盛んになり、若者はこぞって『反戦』を叫ぶようになる。
 ひとつのファッションのように。
 また、その頃になると戦場でのショッキングな写真をよく目にするようになる。
 そしてさらに反戦の声が高まってきたのだ。
 中学生になり感受性の豊かになった自分には、これらの出来事が我が目を疑うような事実として心に焼き付いた。
 やがてそれは 『プラトーン』 や 『フルメタルジャケット』 などのスクリーンの世界で再現され、改めて戦争の愚かさを認識することとなる。

 今回訪問した施設では、戦車や戦闘機を始め、多くの写真や資料を展示した 『戦争証跡博物館』 や、ベトナム戦争終結の地である 『統一会堂(旧大統領官邸)』 などが印象的であった。
 特に、統一会堂の前庭には当時の解放軍戦車がそのまま残されており、1975年のサイゴン陥落の歓声が今にも聞こえてきそうな雰囲気であった。
 少々残念だったことは、戦争証跡博物館で日本語のパンフレットがあるのに中国語を渡されたことだ。
 お陰で内容が半分ほども理解できなかった・・・
 「どこから来たの?」 くらい訊いて欲しいものだ。

 「明日の朝、モックバイ (ベトナム・カンボジア国境) まで送ってくれない?」
 一日の観光を終えた時、トンさんにお願いをする。
 トンさんはバイクタクシーだけではなく車のチャーターも可能なのだ。
 「・・・カンボジアへ行くのか? ・・・ボーダーはデンジャラスだ」
 少し間を置いてトンさんが答えた。
 「そんなに危険なの?」
 「ン〜、・・・ベトナム人はデンジャラス。でも、日本人はセーフティ・・・ たぶん・・・」
 トンさん曰く、カンボジア人のベトナム人に対する感情は何故かとても悪いらしい。
 そのため、カンボジアとベトナムの国境は緊張感があり、殺傷事件や強盗事件が頻発しているらしい。
 それはベトナム人に対するものであって、第三国の人間には関係ないとのことだが・・・
 念のため、ベトナムで買ったTシャツを着たり、名物の三角すげ傘をかぶったりしない方が良いらしい。
 モックバイはホーチミン市から車で2時間ほど行った町だ。
 この町の10キロ先にカンボジアとの国境がある。
 乗合バスもあるらしいのだが相当に時間がかかり、また治安が悪いとの事で車をチャーターするのが一般的のようだ。

(第一章 終)



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