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〜 ラオス2009 〜
 何もしないをする旅

■モーニングコール


 2009年10月、再びラオスを訪れた。
 今回はタイから陸路でメコン川を渡り、ラオスの北部を周遊し、ルアンパバンから飛行機でタイ・バンコクに戻る予定だ。
 日程は9日間… だが、ラオスにいる日数は実質5日間。毎度のことながら、かなりの駆け足旅になることは必至だ。
 まずは成田空港からタイ・バンコクに飛ぶ。
 これまではノースウエスト航空を贔屓(ひいき)にしていたが、今回は全日空にした。
 最近の航空業界もデフレの波が大きく、早割り≠竄迚スやらの割引運賃制度を利用したら、ディスカウントチケットとほとんど変わらない値段で航空券が手に入った。
 タイ・バンコクに到着したのは夜の11時近くだった。
 今夜の宿はあらかじめインターネットで予約をしておいた空港近くのホテルだ。
 ホテルまでの送迎も手配をしておいた。
 到着ゲートで係員が待っているとのことだったので、到着客や送迎の人で相当に混み合ったホールでホテルのプラカードを持った係員を探すが見当たらない。
 散々うろうろキョロキョロしたがそれらしき人が一向に見つけられずに困っていると、制服を着た何かの係員らしきお姉さんに「誰かを探しているの?」と声をかけられ、「ならば私が探して来るからここで待ってなさい」と言われ、程なくしてスーツに身を包んだ小っちゃなお兄ちゃんを連れてきた。
 手にはしっかりとホテルのプラカードを持っていたが、この身長では人混みに紛れて見つけられないはずだ。
 もう少し目立つ人間を出迎え係にして欲しいものだ。
 その場でしばらく待たされ、数人の客が集まってからワゴン車でホテルに向かう。
 事前にもらっていたパンフレットの地図で見ると、ホテルまでは歩いてすぐの場所のようだったが、実際にはそんなに近くはなく、車で15分ほどかかる荒地の中にポツンと建つ新しいホテルだった。
 周囲には民家と工場のようなものがあるだけで、ホテルの宿泊客はその大半がトランジット用に使うだけのようだ。だからこちらから言わなくても、チェックイン時に明日の飛行機の出発時間を訊かれ、モーニングコールの時間と送迎車の出発時間が告げられた。

 翌朝、5時半にモーニングコールの電話が鳴った。
 「グッドモ〜ニ〜ング!」
 「あっ、あっ、グッ、グッドモーニング! サンキュ〜」
 この手のホテルでのモーニングコールは当然に自動応答だと思い込んでいたので、肉声の女性の声にかなり焦る。
 そして身支度をしようと準備をしていると、5分後にドアを「ドン!ドン!ドン!」とノックする音。
 何かと思って出て見ると、
 「グッドモーニング!」
 と、従業員のお兄ちゃんがニコニコしながら立っていた。
 何の用かな…? と戸惑っていると、
 「モーニングコール!」
 と言って去ってしまった。
 「はぁ… それはどうも…」
 ずいぶんと念の入ったモーニングコールだ。
 そして洗面をしていると再び電話が鳴り、
 「グッドモ〜ニ〜ング!」
 と先ほどの女性からのコールが。
 「もう起きてるから大丈夫だ。ノープロブレムだ。」
 流石はトランジット用のホテルである。
 大切な客が飛行機に乗り遅れてはいけないと、ちゃんと起きるまで徹底してモーニングコールを繰り返すのであった。
 ここまでやられると「しつこい!」と怒りたくもなるが、これがこのホテルの最大のサービスなのであろう。
 プロとしての自覚を感じるホテルだ。

 バイキングの朝食をとってから送迎車で空港に戻る。
 送迎車は片道200バーツの有料サービスだが、なぜか料金を請求されることはなく、結果として無料で往復の送迎をしてもらった。
 モーニングコールに忙しくて、料金請求をすっかり忘れていたのであろう。
 
 バンコクを飛び立った飛行機は約1時間後にタイ北部の町・チェンラーイに到着した。
 空港からはタクシーに乗ってバスターミナルへ向かう。
 今回の旅の序盤は10年前に辿ったコースと同じで、チェンラーイのバスターミナルもその頃とまったく変わっていなかった。
 10年の歳を重ねた自分もまったく変わらず、その頃と同じように次の目的地である「チェンコーン」を連呼し、その辺にいる人たちに親切に教えてもらいながらバスまで辿り着く。
 チェンラーイ・チェンコーン間の路線バスはいくつかのルートがあるようで、運良く最短時間で行けるルートのバスに乗ることができた。
 ほどなくして出発したバスは市内のバス停にいくつか停まり、超満員になったところで扉を全開にしたままチェンコーンの町に向けて疾走した。
 10年前もそうだったが、この路線は坊主の乗車率が非常に高い。
 今回もオレンジ色の袈裟に囲まれながら、田園風景の中をひた走る。

 途中でパラパラと客が降り、あれほどまでに混んでいた車内は1時間もしないうちに数えるほどの人数となった。
 私の前の座席にはフランス人バックパッカーのカップルが乗っている。
 彼女の方は車窓に広がる田園風景を眺めて楽しんでいるようだが、彼氏の方は乗車した途端からノートを広げ、眉を寄せて額にシワを作り、時折り頭を抱えながら訳の分からない数式を解いていた。
 君はガリレオか?
 「実に面白い… 早速解いてみよう」(福山雅治風に)
 とか言ってるのか?
 その他の乗客は、地元のおばちゃんたちが6人ほど乗っており、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた。
 この時期のタイは湿度も少なく、全開になった扉から流れる風が実に気持ち良い。
 時々スコールに降られながらもバスは快調に走り続けた。
 が、途中でおばちゃんたちが運転手に大声で何かを叫ぶと、バスはその場で急停車をした。
 そしておばちゃんたちはドカドカとバスを降り、路上に出された露店で買い物を始めた。
 10分ほど停車した後にドカドカとおばちゃんたちが戻ってきて、そして何事もなかったようにバスはチェンコーンの町に向けて再スタートした。
 「キノコよ」
 と言って、おばちゃんたちは今買ってきた物を私に見せてくれた。
 色鮮やかないくつかの大きなキノコだったが、毒キノコのように見えないでもない…



■妊婦のお姉ちゃん


 チェンラーイを出発して2時間半、チェンコーンの町に到着した。
 ここからはトゥクトゥクに乗り換えて国境まで向かう。
 特に見どころは無いがチェンコーンの町はなかなか栄えており、商店が延々と続いていてリゾートホテルなどもできていた。
 河原へ向かう坂道の途中にある立派な建物がタイのイミグレーションで、パスポートと出国カードを提出するだけでスタンプがポンと押された。
 そして河原に降りて行くと、テントの中におばちゃんが数名いて手招きをしている。
 「ラオ?」
 と訊くので
 「イエス」
 と答えると、
 「料金は40バーツ。渡し舟が戻ってくるまで10分ほど待ってて。」
 と言われた。
 戻ってきた細長い小舟はエンジン音をうならせ、メコンの濁流に流されながらも5分ほどでラオスに渡った。
 舟を降りたすぐの高台にラオスのイミグレーションがある。
 ここも10年前と何ら変わっていない。
 建物を入って右側の窓口にエプロンをした妊婦のお姉ちゃんが座っており、ここで入国カードをもらう。
 このお姉ちゃんは何者? パートか?
 入国カードを記入したらパスポートと一緒に再びこの窓口に出せと言うので、記入後に窓口に差し出すと、妊婦のお姉ちゃんはパスポートをパラパラと眺めて「顔写真も1枚出せ」と言う。
 「何で写真が必要なんだ?」
 と訊ねるが、「フォト、フォト」と言ってその理由をちゃんと説明しようとしない。
 「なんでだよ!?」と思いながらも顔写真を出すと、今度は、
 「ビザ代、30ドル」
 と言い放った。
 「ちょっと待てよ! 日本人はビザ免除だろ!」
 窓口に向かって抗議をすると、お姉ちゃんは傍らにあったマニュアルをパラパラとめくり、
 「ノー! ユー ニード ビザ!」
 とキツイ目をして言い返してきた。
 「ジャパニーズ、ノービザ!」
 と何度も主張してやりあったが、妊婦のお姉ちゃんはまったく聞く耳を持たず、仕舞いには私のパスポートを机の引き出しに隠してしまった。
 ラオスでは2007年1月より、それまで必要だったビザが日本人には免除された。
 ローカルな国境ならそのことを失念する係官もいるだろうが、ここファイサーイの国境は日本人が多く出入りするラオス北部のメインゲートだ。
 「ざけんなよ! パスポート返せ!」
 と怒っていると、ちゃんと制服を着た男の係官がやってきて、
 「どうした?」
 と訊くので、
 「この妊婦の姉ちゃんが、日本人はビザが必要だと言って聞かねぇんだよ!」
 と詰め寄る。
 男の係官は、
 「そうですか… 日本人はビザ不要だから、こちらで入国手続きをしましょう。」
 と言って、私にパスポートを出すよう求めてきた。
 「パスポートはこの妊婦の姉ちゃんが机の引き出しに隠しやがったんだよ!」
 と怒ると、男の係官は妊婦の姉ちゃんにやさしく一言何かを言い、引き出しの中から私のパスポートと入国カードを取り出して自分のデスクに戻って入国審査を開始した。
 「おい、おい、それだけかよ? この妊婦の姉ちゃんに叱責とか指導とかはないのか!? なんでそんなに甘やかすんだ!? えっ、おい!」
 と言いたかったが、そこまでの語学力は無いのであきらめて静かに待った。
 その男の係官によって入国審査はすんなりと終了した。
 入国からこんなトラブルがあるとは癒しの国・ラオス≠ェ泣くぞ!
 すべての入国審査も完了し、イミグレーションを後にしようとして思い出した…
 そうだ私の顔写真≠セ。
 妊婦の姉ちゃんの窓口に戻り、「写真も返せ!」と言うと最初はとぼけていたが、渋々とホチキスの痕が付いた私の分身を投げ返した。
 ブロマイドとして欲しかったのなら、最初からそう言えば直筆サイン入りで気持ち良く差し上げたのに、このような姑息な手段を使うとは!
 
 イミグレーションの前の路上には机が出されており、そこでおやじがやる気の無さそうに入国者の体温を測っていた。
 妊婦の姉ちゃんとやりあって熱くなっていた私だったが、体温は平熱だったのでここはほんの一瞬で通過した。
 時刻はまだ午後1時半だが、ここから先の町へはもう進めない。
 よって、今日はこの町での宿泊となる。
 ホテルは10年前に泊まった『タビーシン・ホテル』にした。
 荷を置いてすぐに昼食を食べに出かけた。
 メコン川沿いに張り出したテラスが自慢のレストランに入った。
 午後のまったりとした時間なのか、客はひとりもいなく、従業員もやる気のなさそうにダラダラとしていた。
 対岸のタイを眺めながら、ビア・ラオで喉を潤す。
 「あ〜ぁ、うめ〜〜〜ぇ!」
 やっぱ、ビールはこれに限るね〜☆

 昼食を終え、精算の時になってまだラオスの通貨に両替をしていなかったことに気付いた。
 従業員のお兄ちゃんにその旨を話すと、タイ・バーツでも支払いは可能とのことだった。
 イミグレーションの中に両替所があったが何故か今日は休みで、仕方なく町をプラプラしていると、この小さな町には不釣合いなきれいで立派な銀行があった。
 中は冷房がギンギンに効いており、キャピキャピした若い女性行員が窓口に二人いた。
 そしてキャピキャピしながらラオスの通貨であるキープに両替をしてくれた。
 何がそんなに楽しいんだ?

 食事も両替も終わってしまうとこれと言ってやることは無くなった。
 町そのものもこれと言って見るべきものは無く、丘の上にあるワット・マニラート(寺)に登ったりスローボート乗り場まで散歩したりして午後は過ごした。

 夕食はホテルの目の前の食堂に行く。
 道路に出されたテーブルで、ピン・カイ(ラオス風焼き鳥)をつまみにしながらビア・ラオのダークを飲む。
 ダークは少々高いが、コクがあってこれまた美味い!
 骨付きのピン・カイもビールによく合って最高のひとときだ〜☆
 隣の家の犬がテーブルの周りをウロウロしていたので、ピン・カイの骨を投げ与えたらとても喜んで食べ始めた。
 しかし、それに気付いた他の犬があちこちからタッタカタッタカと集まって来てしまい、テーブルはたくさんの犬に取り囲まれてしまった。
 「うわぁ!」
 それを見た店のおばちゃんは大笑いをしている。
 でも、そのお陰で骨も残さずきれいに完食した。



■メコン疾走


 朝、ホテルの屋上で朝食がとれると言うので昇った。
 屋上には半分外のような倉庫のような場所にテーブルが並べられており、どうやらそこで食事ができるらしい。
 すでに欧米人の若い女性一人が椅子に腰をかけて読書をしていた。
 「ここで朝食がとれるんだよね?」
 「たぶん、そのようね」
 状況からここが食堂には間違いないようだが、テーブルの間には従業員の洗濯物がたくさん干されていた。
 従業員の兄ちゃんたちのパンツを見ながらの朝食か?
 洗濯物を指差して不思議そうな顔をしたら、彼女も困惑の表情を浮かべて「クスッ」と笑った。
 しばらく待っていると従業員の兄ちゃんたちがやって来て、一応は恥ずかしいそうに洗濯物を片付けてメニューを持ってきてくれた。
 
 今日はパークベンの町まで向かう予定だ。
 パークベンまでは、スローボートかスピードボートに乗ってメコン川を下ることになる。
 スローボートはその名のとおりスローに進むボートで、パークベンまでは4時間ほどの所要時間だ。
 『地球の歩き〜』なるガイドブックには8時にファイサーイ出発となっているが、昨日にボート乗り場で聞いたところによると11時に出発とのことだ。
 今日はこの町で1泊の予定なので、スローボートで向かっても充分過ぎるほどの時間はあったが、スピードボートでメコン川を疾走するスリルを楽しむのも捨て難い。
 濁流のメコン川を暴走するので事故が頻繁に発生しているが、あの爽快感は病み付きになるのだ。
 散々迷った挙句、メコンの藻屑とならないよう祈りながら、今回もスピードボートで下ることにした。
 スピードボートに定刻の出発時刻はなく、客が集まり次第いつでも出発する。
 逆に客が集まらなければいつまでも出発しないか、高額な運賃を払って舟をチャーターするしかない。
 そこで、客が集まらなかった場合にスローボートに変更できるよう、早めにホテルをチェックアウトしてスピードボート乗り場に向かうことにした。
 乗り場はトゥクトゥクで10分ほどの場所にある。
 トゥクトゥクを探してホテルの前で立っていると、ひとりのおやじが声をかけてきた。
 「どこへ行く?」
 このおやじはトゥクトゥクの運転手か…?
 ならばちょうど良いので、
 「スピードボート乗り場へ行きたい」
 と告げると、
 「OK。オレが今トゥクトゥクをつかまえてやるから安心しろ」
 と言う。
 この人は単なる商店の親切なおやじだった。
 おやじは走ってきたトゥクトゥクを停めて運転手の兄ちゃんに、相場が1万キープのところを8千キープで値段交渉までしてくれた。
 そして何故だか分からないが、おやじは嬉しそうにこちらに向かって指でOKサインを出すと、私の重いバックパックをトゥクトゥクに載せてくれた。
 「何だか分からないけど、ありがと〜!」
 と礼を述べ、トゥクトゥクはスピードボート乗り場に向かった。

 トゥクトゥクはメコン川沿いの小さな空き地に到着した。
 食堂らしき店とチケット売り場の建物があり、メコン川を見下ろす東屋では客待ちのトゥクトゥク運転手と客が集まるのを待つスピードボートの客(なんか、ややっこしいな…)がヒマそうにしていた。
 チケット売り場の窓口には誰もおらず、事務所の中を覗くと大勢の男たちがテレビを観ていた。
 その中の係員らしき男に
 「パークベンまで行きたいんだけれど…」
 と声をかけると、
 「ハーフタイムまで待て」
 と言う。
 ハーフタイム?
 時間のことを言っているようだが、どういう意味だ?
 「ハーフタイム? 何じゃそりゃ?」
 と不思議そうな顔で訊き返すと、係員はテレビを指差した。
 テレビではサッカーの試合中継が放映されていた。
 「あっ、サッカーのハーフタイムね… なるほど!」
 って、言っていることは理解したが、サッカーなんか観てないでさっさと仕事をしなさい! 仕事を!
 何で客の私がサッカーのハーフタイムまで待たなきゃならんの?
 仏のように温和な私だが、これには少々ムッとして
 「今すぐチケットを売ってく…」
 と言いかけたが、すでに係員はテレビの画面に釘付けになっていた。

 東屋でヒマそうにしている人たちの中に混ざり
 「パークベン? パークベン?」(あなた方はパークベンに行かれるのですか?【意訳】)
 と訊ねてみると、その中の2人が自分と同じようなスピードボートの客だった。
 彼らが言うには、
 「まだ3人しか集まっていないので、サッカーのハーフタイムになってもチケットは発売されないだろう。」
 とのことだ。
 ここはラオス時間≠ノ従って、のんびりと待つしかないようだ。
 
 ハーフタイムになったが窓口は開かなかった…
 しかし、客の数は結局増えなかったが1時間後に窓口が開き、チケットの発売と身分証明書のチェックがおこなわれた。
 まだ客の人数が充分とは言えないので何時の出発になるか分らないが、とりあえずボートは今日中に出発するようである。
 さらに待つこと30分。
 スペイン人の旅行者3名がやってきて客が6名になったので、いよいよボートが出発することになった。
 細長い小型のボートはまだ新しく、備え付けのヘルメットもライフジャケットもちゃんと命を守ってくれそうで、10年前とは相当に変わっていた。
 自分はスペイン人の兄ちゃんと前から2番目の座席に腰を下ろしたが、船頭が1番目の席の背もたれを外して「広く使え」みたいな身振りをした。
 窮屈な体育座りから解放された我々はガッツポーズを交わして喜んだが、出発間際になって我々の足元にはプロパンガスのボンベが運び込まれた。
 「転がらないように押さえていてくれ」
 と船頭は我々に言うと、ボートはメコンの流れへと進んで行った。
 爆発しそうな不安を抱えながら、スペイン人の兄ちゃんと二人でガスボンベを足で押さえながらパークベンへ向かう。
 ボートは乗り場を少し離れると、激しいエンジン音をうならせて一気に加速した。
 メコンの風を全身に受ける爽快感、そしてこの浮遊感は体験した者にしか理解できないだろう。
 「ん〜、カ・イ・カ・ン」(薬師丸ひろ子風に)
 まさにこの一言である。
 ボートは小刻みにピョンピョンと跳ねながら水面をすべり、どんどんとスピードを上げていった。
 途中でスコールに降られることもあって我々はびしょ濡れになったが、すぐにラオスの熱い太陽に照らされて服も乾いた。

 ジェットコースターも2時間も乗れば飽きてくるだろうが、ボートは山間部の大河を行くこと2時間15分、そろそろ風景にも飽きてきた頃にパークベンに到着した。
 ボートからは四つん這いになって急斜面を登る。
 町はとても小さく、炎天下の日中で人々は木陰でゴロゴロしながら過ごしており、一本道の両側にある食堂やゲストハウスも閑散としていた。
 ボート乗り場からすぐの場所にあるゲストハウスの前にニコニコしたおやじが立っていて、手招きをするので部屋を見せてもらった。
 部屋は狭くて傾斜していたが清潔で、メコン川が眼下に広がるそのロケーションに心を惹かれ、そのままチェックインした。
 扇風機が部屋に備え付けられていたが、この町での電力供給は18時から22時までとのことで、日中の暑い時間だったがそれを使うことはできなかった。
 しかし、日陰や部屋の中ではそれほど暑さも感じず、涼やかな風がとても心地良かった。
 昼食がてらに散策をしたが、ほんの10分も歩けば町を一周してしまうほどに小さな町だった。
 部屋に戻って読書や昼寝をして午後を過ごす。
 聞こえてくるのはニワトリの鳴き声くらいで、時折通る舟のエンジン音が唯一の人工音なくらいだ。
 風のそよぐ音が心を和らげてくれる。
 こんな静かなパークベンだが、夕方にスローボートが到着すると町は賑わいを見せる。
 船着場にはゲストハウスの客引きと、旅行者の荷物を運んで小遣い稼ぎをする子どもたちが集まり、降りてきた乗客たちを奪い合う。
 そして食堂やゲストハウスは一気に賑わいを見せ、洋楽のポップな音楽が町の中に流れ出した。
 日中と夜ではその様子がガラリと変貌するのがこの町だった。

 陽も沈みかけてきたので、町外れにあるラオ・マッサージの店に行った。
 メイン通りから少し入った未舗装の道を行くと、1階が食堂になっている大きな木造の家屋がそれだった。
 2階に上がって事務所のような部屋におばちゃんがいたので「マッサージ」と告げると、薄暗い隣の部屋に案内をしてくれた。
 南国らしいラオス家屋のその部屋は8畳ほどの床張りで、すでに2人の欧米人のおやじが半裸になってマッサージを受けていた。
 渡されたトランクスにはき替えて待っていると若いお姉ちゃんがやてきて、足の先から全身にかけてオイルを使った丁寧なマッサージが始まった。
 荒々しいタイ式マッサージと違い、やさしく全身を揉み解してくれるラオ式マッサージは、ついウトウトしてしまうくらいに気持ち良い。
 部屋にはアロマの香りがし、開け放たれた窓の外からは虫の音。そして、マッサージ師の女の子たちがしゃべる悠長なラオ語が耳を流れ、魂を抜かれてしまったようになった。
 60分のマッサージ時間はほんの一瞬のように感じた。
 最後は意外にも余韻なくあっけなく終わり、背中をポンポンと叩かれて「終わりだよ〜」みたいな感じで女の子はさっさと帰ってしまった。
 外はすっかりと陽が落ち、空には満天の星が輝きを放っていた。
 メイン通りから外れたここは灯りがほとんどなく、星を眺めるには絶好の場所だった。
 天の川も見える。
 サハラ砂漠で見た星空にも負けないほどの星の数だった。

 泊っているゲストハウスの食堂で夕食をとって部屋に戻り、さてシャワーでも浴びるかと思っていたら停電になった。
 さらに断水となってしばらくは暗闇で何もできずにいた。
 夜10時近くになって電気と水が再開し、またいつ止まるかわからない心配があったので、慌てて水シャワーを浴びる。
 そして、メコンの流れる音を子守唄に眠りに就いた。



■中国色の町


 風の音、虫の音、家畜の鳴き声… 自然の音は実に心地良い。
 だけど、夜中に大声で鳴くなニワトリ! 何時だと思ってるんだ!
 まぁ、それはさておき…
 次に目指すのはウドムサイの町だ。 
 ウドムサイ行きのバスは「おそらく9時」とゲストハウスのおやじが言うので、8時前に朝食を済ませて宿をチェックアウトした。
 道路にたむろしていたトゥクトゥクに「バスターミナル」と言ったが通じずに困ったが、ラオ語で「キュロッ」と言ったらやっと通じた。
 バスターミナルはトゥクトゥクで5分ほど走った場所にあった。
 バスターミナルといっても道路の脇に少し広くなった場所があり、そこに雑貨屋とバス事務所の小屋があるだけだ。
 バスらしき車体は停まっていなかったが、乗客であろう荷物を持った数人の男たちが道路脇にしゃがんでいた。
 そして、その中のひとりの男が「よ〜ぉ!」と声を上げて私に手を振った。
 彼は昨日スピードボートで一緒だったラオス人のおじさんだった。
 おじさんは自分の隣に置いてある小さな木の椅子を指差し、「ここに座れ」と勧めてくれた。
 英語のできないおじさんとのコミュニケーションは、単語の羅列とジェスチャー、それと雰囲気である。
 どうやらこのおじさんも私と同じバスでウドムサイへ向かうらしい。
 
 1時間ほど道路脇で待っていると、乗客の数も増えてきて、掘っ立て小屋のバス事務所が開いて切符の発売が始まった。
 切符を買い終えるとラオス人のおじさんが
 「バスはこれだ」
 と指差したのは、オンボロのワゴン車だった。
 座席は一人でも多くの客が乗れるようにシート幅が異様に狭く改良されていて、背筋をピンと伸ばして行儀良く座っても、前のシートに膝がメリ込むほどであった。
 腰痛持ちの私には拷問のようなバスである。
 
 バスは定刻の9時にパークベンを出発した。
 満席で出発したのだが、途中の山間部の集落から少数民族の方々がさらに乗り込んできた。
 2人掛けの窮屈な座席には3人で座り、小さな子どもは見ず知らずの他の乗客が抱っこをし、「もうこれ以上はどんなに頑張っても人は乗れないだろう…」と思われるくらいまでに車内はスシ詰めになった。
 ウドムサイまでは展望の開けない山間部の道を延々と走る。
 途中にポツポツと集落があり、高床式の粗末な住居では食事の準備やトウモロコシ干しなど、人々の素朴な生活を垣間見ることができた。
 ヤギやニワトリは車道を闊歩し、小学生たちは楽しそうに登下校していた。

 パークベンを出発して1時間半走ると大きな町に着き、ここで小休憩となった。
 固まった体を思い切り伸ばせる貴重な時間だ。
 ラオス人の乗客たちは商店で生活用品の買い物を始めた。
 食材やサンダル、ワイシャツなどの雑貨を大量に買い込み、そうでなくても狭い車内は彼らの生活用品でいっぱいになった。
 こんな状況の車にさらに2時間揺られ、12時半にひときわ大きな町であるウドムサイに到着した。
 さすがは県庁所在地のウドムサイだけあって、バスターミナルは一応ターミナル≠轤オい造りになっている。
 数台のきれいな大型バスも停車している。
 明朝に向かうノーンキヤウのバス時刻を確認すると、朝9時に出発とのことだ。

 バスターミナルから町の中心までは歩いてすぐだった。
 この町は中国国境に近く、中国との物資ルートの拠点になっている町だ。
 だから中国人も多く、町の中にある看板は漢字表記のものが非常に多い。
 中国人が好きな赤い提灯を大量にぶら提げた食堂も目に付く。
 そして、風水のための金魚を路上で売る人もいる。
 とても中国色の強い町だ。
 そう言えば路上で「カーペッ!」とタンやツバを吐く人も多い。
 そして明日はさらに中国色を強く感じる場面に遭遇するのだが、まずは本日の宿を決めねば…

 まず最初に訪れたゲストハウスは、暗い部屋しか空いていなかったのでパス。
 次に訪ねたゲストハウスは、風呂上がりのおネェちゃんが濡れた髪をタオルで拭きながら対応してくれた。
 中庭を囲むように客室のあるゲストハウスで、部屋もそれなりにきれいで安かったが、この中庭がカンボジア・暗黒のポルポト政権時の虐殺の場であるトゥール・スレン収容所を連想させたので、こちらも丁重にお断りした。
 「あら残念ね」と、おネェちゃんはバスタオルで髪を拭きながらそう言った。 
 3番目に訪ねた小さなゲストハウスは何度も呼んでも誰も出てこなく、しばらく待ったがそれでも誰も出てこなかったので已む無くパス。
 結局、最初に訪ねたゲストハウスの向かい側にあった『ビラウォン・ゲストハウス』に荷を解いた。
 このゲストハウスは玄関で靴を脱ぐタイプで、重厚な造りの館内はとても清潔でゆったりとした感じだ。
 部屋の調度品もしっかりした物を使用しており、明るくて静かで広い部屋だった。
 そして何よりもオーナーのおやじさんがいい人だった。
 部屋が決まるとすぐに昼食と町の散策に出掛ける。
 この町には比較的大きな市場が2つもあったが、どちらも閑散としていて寂しい限りだった。
 町の中を行く人も少なく、商店や食堂もやる気のない気だるい雰囲気が漂っていた。
 
 夕方になってプータートの丘に登った。
 泊まっているゲストハウスの近くに登り口があり、頂上までは石段が続いていた。
 高さはそれほどないので、簡単に頂上に到着することができた。
 頂上は寺院になっており、白い仏塔が夕陽に映えて美しく輝いていた。
 一応、町を一望することができるが、これと言ってどうってことのない場所だ。
 ただし、地元の若者たちのデートスポットのようで、町を見下ろすベンチにはいちゃいちゃしたカップルがたくさんいた。
 おじさんはひとりで楽しくないぞ!
 仏塔に腰をかけてそんなカップルたちを眺めていると、遠くの方からニコニコした男が近寄ってきた。
 開襟シャツに革靴、手には鞄を持った、サラリーマンのような男だ。
 そして流暢な英語で話しかけてきた。
 「こんにちわ。私はギザと申します」
 「ギザ… ギザの上位級はギガント≠ニしょこたん(中川翔子)は言ってるぞ。さらにビッグバン≠ニかバッカルコーン≠ニかあるぞ」
 「あなたはどこから来ましたか?」
 「日本だよ。ギザ君は?」
 「この町に住んでます」
 このようなシチュエーションで馴れ馴れしく話しかけてくるのは、東南アジアの場合たいていは押し付けガイドであることが多いが、ギザくんはそれだけ話すと、
 「では、さようなら」
 と丘を下りて行ってしまった。
 そうか、カップルばかりの中でギザ君も一人で寂しかったのであろう。
 
 真っ赤な夕陽が地平線に沈み、闇が急に訪れた。
 心細い灯りのもとで丘を下り『カンニャ』という食堂で夕食をとる。
 最初は私以外に客はなく、店の家族が隣のテーブルで一緒に食事をしていたが、やがて中国人の乗った車がたくさん到着して店はかなり賑やかになった。
 この店の炒飯(フライドライス)はとても美味かった。
 さっぱりとした味付けで、どこか懐かしい味のするチャーハンだった。
 そして量が多かった。
 一人では充分過ぎるほどの量で、しかも安かった。

 ゲストハウスのテレビで中国の放送を見ながら就寝。

 翌朝、朝食のためにゲストハウス近くの食堂に行くと、すでに多くの客で店が混んでいた。
 ラオスでは朝の食堂がこのように混み合っているのは珍しいことだが、ここは中国色の強い町。朝食を外食にする習慣のある中国人たちで食堂は朝から繁盛していた。
 そのために注文した物がなかなか出てこなかったが、それでもバスが出発する1時間前にはターミナルに到着した。
 ターミナルにはここから国境を越えて中国へ向かうたくさんのバスが待機をしていた。
 切符売り場の窓口もかなり混んでおり、良識あるおくゆかしい日本人の私は静かにその列に並んだが、前の方では平然と割り込む中国人が多かった。
 ほんの少しのスキを見て、切符売り場の小さな窓口に横から手を突っ込んでくるのだった。
 横入りされたラオス人たちは文句も言わず、おとなしく順番が来るのを待っているだけだ。
 これではいつまで経っても自分の切符が手に入らない。
 ここは順番待ち≠ニいう美しい文化をヤツらに教えるべく、横入りする中国人たちに極めて紳士的に注意を促した。
 「てめぇーら、割り込むんじゃねーぞ! コラ!」
 しかし、ビビったのは前に並んでいるラオス人たちで、当の中国人たちは私に一瞥をくれただけで割り込みをやめようとはしなかった。
 こうなったら仕方ない、身を持って教えるしかない。
 そこで私はラオス人たちをかき分けて列の一番前まで進み、窓口に差し入れようとする中国人たちの手をペシペシと叩いた。
 呆気に取られた彼らがその手を引っ込めたとき、窓口のおばちゃんが私に、
 「どちらまで?」
 と尋ねた。
 私はすかさず
 「ノーンキヤウ、1人ね」
 と告げ、すぐに切符が買えた。
 しかし、なんだかこれでは私が割り込んでしまったように見えるが、順番待ち≠ニいう美しい文化を伝播するためには多少の犠牲は已むを得ないだろう。
 ラオス人たちの冷たい視線を感じたが、これはこれで「よし!」としよう。



■何もしない贅沢


 ターミナルには韓国製の大型観光バスがたくさん停まっていた。
 窓はピカピカに拭かれ、車内にはテレビを搭載した日本人が普通に想像する観光バスだ。
 大型バスでないものも真新しいマイクロバスだったので、これなら次の町・ノーンキヤウまでは優雅なバス旅ができそうである。
 と思ったら、大型バスの間に挟まれて目立たないワゴン車が私の乗るバス≠ナあった。
 これだけ立派なバスを見せつけられた後のワゴン車だったので、落胆は相当に大きかった。
 ワゴン車の前でアメリカ人バックパッカーのカップルがウロウロしていたので、どこまで行くのか尋ねると、「ノーンキヤウ」だと言う。
 「ならば私と一緒でこのバスだよ」
 とワゴン車を指さすと、「オーマイゴット!」と二人して大きく頭を抱えた。
 このカップルの落胆の方が、私よりも大きかったようだ。
 しかし、神は我々を見捨てたわけではなかった。
 シートのピッチ幅が昨日のワゴン車よりもやや広かったのだ。
 これならば昨日みたいにヒザに擦り傷を作らないで済みそうだ。
 でも、アメリカ人にはこのシート幅ではかなりつらそうだ。
 日本人に生まれてつくづく良かったと思う。
 戦争では負けてしまったけれど、こんなときは優越感にどっぷりと浸れるものである。

 バスの出発時刻は9時だったが、定刻の5分前にターミナルを出発した。
 隣のアメリカ人カップルが腕時計を指差して「ラッキーだね」と私にジェスチャーを送ったが、ラッキーでも何でもなく、ワゴン車はターミナルの向かいにあるホテルの敷地に入り、中国人夫婦と大量の荷物を積み込むと、再びターミナルに戻ってエンジンを切ってしまった。
 「なんだ、迎えに行っただけか…」
 

 9時15分になり、まったくやる気の無い切符売場のおネエちゃんが客の切符をチェックし、やっとのことで出発となった。
 客はアメリカ人カップルと中国人夫婦、そして私の5人だけだったが、途中の村からは多くの少数民族の人たちが乗り降りをした。
 だいたい乗ってくるのは若者で、それを村人が総出で見送っていた。
 村の代表として別の村に遠征に行くような感じだ。
 って言うか、村には娯楽が無いので、見送りが唯一の娯楽なのかもしれない。
 中国人夫婦のおやじはさまざまな果物を食べてはその殻をペッペッと車内に吐き捨てていたが、必ず私にも「食べろ」と無言でそれらを差し出してくれた。
 公衆道徳には欠けるところがあったが、案外と良いおやじだ。
 でも、もらったみかんのような柑橘類は酸っぱくて不味かった…

 途中から客の乗り降りがあったが最終的には出発した時の5人のメンバーになり、3時間強かかってノーンキヤウに到着した。
 この町は山に囲まれており、真ん中に川が流れていた。
 ワゴン車はこの川のほとりにある広場に到着した。
 おすすめのホテルがあると言うので、アメリカ人カップルと一緒にそこへ向かうことにした。
 広場から坂を登ると大きな橋があり、その対岸にバンガロー形式のホテルがあった。
 山道の入口にある管理棟のフロントで宿泊料金を確認し、部屋を見せてもらう。
 部屋はすべてバンガローの一戸建てになっていて、蚊帳を吊ったツインルームに清潔なバス・トイレ、そしてデッキチェアーのあるテラスからは川向こうに岩山が聳え立っていた。
 アメリカ人カップルは予算が合わなかったようで別のホテルを探すと言って去ってしまったが、私は文句なしでチェックインした。
 
 午後はテラスのデッキチェアーで読書をする。
 川面を流れるそよ風は実に爽やかで、木々の葉っぱの揺れる音くらいしか聞こえるものがない。
 窓を開けっ放しにしていると巨大なバッタが部屋の中に飛び込んでくるが、それも自然の恵みだ。
 こんな静かで穏やかな環境の中でビールの栓を開けると、心地良い眠気に誘われる。
 夕方になって陽が山に傾いてくると、家々から炊事の煙が立ち上り、今までとは違った風景を見せてくれた。
 何もしない贅沢… まさに至福のひとときである。

 夜になると満天の星が輝いた。
 星たちの瞬きがあたかも会話をしているようで、そしてその会話が聴こえるような気がした。
 この星の下、管理棟にあるレストランで夕食にした。
 ラオスの新しいビールだと言ってすすめてくれた『ランサンビール』と、見た感じは本格的だが焼うどんのようなボロネーゼを食す。
 虫の音を聞きながらの食事は格別である。

 このホテルのオーナー夫人は日本人で、ロビーには日本語の本も多数置かれていた。
 それらをパラパラと読みながら、静かに夜は更けていった。



■いまだ健在・トラックバス


 朝、岩山はその姿の半分が霧に覆われて、幻想的な風景を見せていた。
 ホテルを出発し、次の町であるルアンパバンに向かうために昨日のバス乗り場である広場まで行く。
 地元の人々が何人かいたので、「ルアンパバン行きのバスはここか?」と尋ねると、「違う」と言いながら天を指差した。
 「上?」
 なんだかよくわからないので別の人に聞いてみたが、やはり同じように天を指差す。
 何人か聞きまくり、やっと英語の話せる人が言うには、「ルアンパバン行きのバスはこの上の橋のたもとから出発する」とのことだった。
 たしかに、この広場の斜め上には橋があり、それで皆が上を指差していたのだが、天を指さないで斜め上に見えている橋を指差してもらいたいものだ。
 先ほど通り過ぎて来た橋のたもとに戻る。
 先ほどは気付かなかったが、そこには小さな駐車スペースがあり、そこで尋ねるとここがルアンパバン行きのバス乗り場だった。
 切符はすぐに買うことができ、近くにいた兄ちゃんが「バスはこれだ」と、そこに停まっていたトラックを叩いた。
 「これはバスではなく、トラックと言うのだ」
 しかし、兄ちゃんは大きくうなずいて、
 「出発まで1時間あるからゆっくりしておけ」
 と余裕の表情でそう答えた。
 10年前のラオス北部では当たり前の交通機関であったトラックバスは、今ではその姿を消しつつあるが、ここでは立派な現役として健在していた。
 トラックバスの荷台には木の固いロングシートのベンチが備え付けられており、客がここに乗るようになっていたが、後から分かったことだが、この路線は客よりも貨物輸送が主力のようで、人も物も区別なく運搬されていた。

 荷台に乗ってしばらく待っていると、小ぎれいな身なりの日本人バックパッカーがやってきた。
 「あっ、日本人の方… ですよね?」
 と声をかけてきた彼は富山君(30歳・独身)だ。
 「トラックバスですね…」
 と、あまり驚いた様子のない彼は相当のラオス好きで、これでラオスは10回ほど来ているそうだ。
 そんな彼とルアンパバンまでの道中を共にする。

 トラックバスはこれまでのバスと同様、途中の村から客の乗り降りが頻繁にあり、また物資も大量に積み込まれた。
 穀物や家畜、機械、何が入っているのか分らない汚い袋、そして口をパクパクさせた獲り立てのグロテスクな巨大魚まで、所狭しと我々の足元に運び込まれた。
 荷物だけ載せて人が誰も乗らないことがあったが、その荷物ってどうなっちゃうの?
 誰かがこの先で受け取るのか、バスの人が配達したりするのかな…
 貨物と客を満載にしたトラックはそれだけでも過酷な環境なのに、運転席のすぐ後ろに排気管があり、我々の荷台に思い切り排気ガスを噴出しながら山道を走った。
 「う… 酔いそう…」
 三半規管の弱いラオス人は、ほとんどの人がグッタリしていた。

 過酷な荷台に揺られること4時間、やっとのことでルアンパバンに到着した。
 トゥクトゥクに乗り換えて、富山君がおすすめする『サヨーゲストハウス』に向かう。
 このゲストハウスはさまざまなタイプの部屋があり、ここがラオスでの最後の町となる私はリッチな部屋に、そしてまだまだ旅の続く富山君はチープな部屋に落ち着いた。
 富山君とは近くのレストランで昼食をとり、トゥクトゥクでラオス航空の事務所に行ってお互いのリコンファームをおこなう。 
 夜に再び合流することにして、私は一人で町の散策に出掛けた。
 小学校で子どもたちの写真を撮りながら、この町を代表する寺院であるワットシェントーンまで歩く。
 この寺院はラオスで一番美しいと言われていて観光客が大勢訪れる場所だが、日中の暑い時間帯は境内にいる人もまばらで静かに見学ができた。
 本堂に祀られている仏像の前に座り、心を空にして瞑想していると、
 「ニーハオ! エクスキューズミー!」
 と、明らかに私に向かって声をかける、明らかに日本人の女性がいた。
 「あの… 私は日本人ですが…」
 「あっ、あっ、すみません!」
 と慌てる彼女は、一人旅をしている清美さん(推定年齢33歳)だった。
 「すみませんが、仏像の写真を撮りたいのでそこをどいて下さい」
 彼女は不謹慎にもバチバチと仏像に向ってフラッシュを使って写真を撮った。
 そんなにバチバチ撮ってるとバチが当たるぞ!
 彼女は撮影が終わると私の隣に座り、
 「おひとりですか?」
 と旅の会話が始まった。
 「ところで、中国人に見えましたか? 『カーペッ』ってやってなかったでしょ (^o^) 」
 と訊いてみると、
 「ホント、すみません!」
 と大きく笑う彼女。 
 それからしばらくの間、旅の情報交換をおこなった。

 夕方、ゲストハウスのロビーで富山君、そして清美さんと待ち合わせをして夕食に出掛けた。
 行き先は、地元情報にやたらと詳しい富山君がぜひ行きたいという焼き肉屋≠セ。
 メコン川に沿った場所にその店はあり、屋外のガーデン式になっていた。
 店の看板は出ていないが地元の人で賑わっており、外国人がまったくいないことから、かなりラオス通でなくては来ない店のようだ。
 ビア・ラオで乾杯をし、焼き肉をつつきながら旅の話しで夜遅くまで盛り上がる。
 焼き肉の方はと言うと、これはいたって普通の焼き肉だった。
 何もラオスで食べなくてもいいのではないか?



■身勝手な欧米人


 翌日は富山君と二人でメコン川を舟でさかのぼり、パークウー洞窟を観光することにした。
 私はパークウー洞窟にはこれまで2回ほど訪れたことがあるが、富山君は初めてとのことで、特にやることのない私は富山君に付き合うことにした。
 メコン川沿いにはチャーター舟の客引きが多数いたが料金が折り合わず、旅行社のツアーに参加することにした。
 旅行社の人に連れて行かれた舟乗り場には多くの欧米人観光客がおり、まるでテーマパークのようである。
 乗船名簿に名前を書くと番号札が渡され、しばらく待っていると番号が呼ばれて舟へと案内された。
 我々の舟は全部で7名の客だったが、自分たち以外はみな欧米人だった。
 まず最初に訪れたのは酒造りの村であるバーンサーンハイ。
 ここはいつもは静かな村なのだが、今日はたいそうな賑わいを見せていた。
 村の中心にある寺院の広場には、村人たちが総出で食事やイベントの準備をしており、テントの中には高僧の姿も見える。
 聞くところによれば、正午過ぎから葬式が始まるとのことだ。
 日本の葬式とは違い、まるでお祭りのようである。
 これはこれで興味深いのだが、これを見たツアー客のスペイン人のおやじが、我々を集めてこう言った。
 「この葬式は非常に興味深く、ぜひとも参加したい。だから、洞窟に行くのはやめて午後までここで過ごさないか?」
 私と富山君は「冗談じゃない! 葬式見物で一日を潰されたくない」と反対し、他の欧米人たちも興味はあるが洞窟にも行きたいとのことで、意見が分かれた。
 富山君が、
 「では、あなただけがここでツアーを離脱し、トゥクトゥクでルアンパバンまで帰ってはどうか?」
 とスペイン人のおやじに提案したが、理由は分らないが「それはできない」と頑なに拒否された。
 結局、スペイン人のおやじをこの村に残して我々は洞窟を見学し、帰りに再びこの村に寄り、葬式を見学してルアンパバンに戻ることになった。
 「ふざけんなよ! 真っ直ぐルアンパバンに戻れよ!」
 と私と富山君は怒ったが、民主主義の先進国である欧米人たちの多数決には叶わなかった。
 船頭には追加料金を支払うことで納得させたようだが、
 「あなたたちも追加料金を負担してね」
 と欧米人のデブのおばちゃんから言われた時には頭にきた。
 「なんで俺らまで負担するんだよ! 俺らは舟を降りないから払わねぇよ」
 と険悪なムードで洞窟に向かうことになった。
 
 洞窟に向かう舟の中でも身勝手な欧米人による我々への説得は続いた。
 「何で君らはそんなに急いでいるのだ?」
 「もうすぐ日本に帰るんだよ!」
 「僕たちはみなルアンパバンに2週間近くいて退屈しているんだ。葬式なんて絶好のイベントじゃないか」
 「あのな、葬式だぞ。祭りじゃないんだよ! 人が死んでるんだぞ。それに、あんたらは長期のバカンスかも知れないが、日本人の夏休みは1週間しかないんだよ!」
 「なぜそんなに日本人は働く? 楽しいか?」
 「そんなのうちの社長に言ってくれ!」
 国民性の違いでぶつかり合っても平行線で、混雑した洞窟をそそくさと見学し、舟は再びバーンサーンハイに戻った。
 「俺らは舟を降りないから、スペインおやじを連れてすぐに戻って来いよ」
 「1時間くらいいいか?」
 「ダメ、そんなに待てない」
 しかし、ここは大人の私と富山君、意地悪いことはこれ以上言わずに、
 「30分だけ待つ。30分過ぎたら舟を出すからな!」
 と寛大な心で欧米人たちにそう告げた。
 欧米人たちが舟を降りると静寂が訪れた。
 「少し大人気なかったかね…」
 と富山君に話し掛けたが、
 「欧米人は勝手すぎるからイヤなんだよ!」
 と、彼はまだプリプリと怒っていた。

 絶対に30分では戻って来ないと思っていたが、珍しく遅刻することなく、振舞い酒で顔を真っ赤にしてヘロヘロになったスペインおやじを連れた身勝手な欧米人たちが戻ってきた。
 引き続き険悪なムードを満載にした舟は、午後の暑い日射しの中をルアンパバンへと帰って行った。



■帰国


 のんびりするためにやって来たラオスだったが、結局は移動ばかりで慌ただしい旅になってしまった。
 すでに今日は日本に帰る日だ。
 ヴィエンチャンに飛ぶ富山君よりも一足早く、朝6時にホテルをチェックアウトした。
 ホテルの前にちょうどトゥクトゥクがやって来たので、これに乗って空港に向かう。
 表通りでは僧侶の行列がこの町の名物である托鉢をおこなっていた。
 ラオスの見納めの風景だ。
 大変失礼だが、敬虔ではない仏教徒の私なのでトゥクトゥクの上から合掌する。

 正午にはタイ・バンコクの中心地、サヤームスクエアーにいた。
 バンコクの都会ぶりはラオスとのギャップが大きく、流れる車と人の波でめまいを起こしそうだ。
 広場ではタトゥーコンテストが開催されていて、厳つい男たちが自分の体に彫った刺青を自慢気に披露していた。 
 中にはスキンヘッドの頭にまで刺青をしている者もいて、気持ち悪ぃ…
 いっそのこと、髪の毛模様の刺青にすれば良いのにと思う。
 バックパックはスワンナブーム空港に預けてきたので、とても身軽に街歩きが楽しめる。
 インチキ臭い店が密集するマーブンクローンセンターを冷やかしながら巡り、日本食の店で酒を飲む。
 久々の日本酒は実に旨い!
 そして、ほろ酔いになったところで空港に戻り、もう少しで日付が変わる時刻に全日空機は日本に向けてバンコクを飛び立った。
(完)



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